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Posted by たまりば運営事務局 at

自分の家族ががんになってしまったら

『もし、自分の配偶者ががんになってしまったら』の記事を読んで、思い出したことがあります

先日、以前の同僚が離婚したと聞きました

その人は、私が始めて友人以外の「がん体験者」と話した人でした

私が「がんになった」と言ったところ「女の人なのに傷跡が残るから大変だね」と言ってくれました

その時に私が「親に話したけれど、何だか変なこと言うし、わかってもらえなくて・・・」というと「そうそう、家族は気を使ってくれるんだけど、何か違うんだよね」という話をしました。

その方は、食道がんでステージ3で5年生存率は50%以下と医師から言われたそうです

かなり大変な手術だったようで、その後の抗がん剤治療からご飯(白いご飯)が食べれないや色々なことがあるらしく「こんなに大変だとは思わなかった」と言っていましたが「まあ、生存率50%だから、好きなタバコはやめないでおく」と言ってるし、家族なら大変な人だろうなって思ったのを覚えています

その話を教えてくれた人が「きっとそれは、がんになったから。じゃなくって、その前の関係性が大きく関わってくるんだろうね」と言っているのが印象的でした。その人は、小さい頃にお母さんをがんで亡くしていて自分はお母さんの記憶が全くないこと、その後、お父さんが再婚もせず男手1つでお兄さんと彼を育ててくれたそうです。

がん体験者やがん家族。色んな人と話をしてみると、色々な話を聞くことができます

みんな同じではないんだなと思うこともあるし、同じだなって思うこともあります

若くしてがんになった人が、その後で家族をがんで亡くすこともある

介護をしながら、がんになって「申し訳ない」と介護施設にお姑さんを預けた人
娘さんがいなくなって、孫を育てている人
家族ががんになった時に「がんになった」と近所の人に言えずに「鬼嫁」と言われながらも別居を決めた人

家族ががんになっても、自分ががんになっても、どっちもつらいんだと思った

そして、そのことで人生が変わることもあるんだなって思いました


  
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  • 2015年02月02日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    もし、自分の配偶者ががんになってしまったら

    もし、自分の配偶者ががんになってしまったら――。NHKの朝の情報番組「あさイチ」(1月28日放送)で、がん患者の夫を持つ妻の悩みが紹介された。

    夫ががんになると、生活の変化や治療費の問題など大変なことは多々あるが、周囲の何気ない言動によって苦しむこともあるという。番組には40~50代のがん患者の妻3人が登場。夫ががんになってからの「人付き合いのストレス」について語った。

    「なんで息子だけ、がんにならなきゃいけないの?」

    40代の女性は、夫が入院すると、夫の友人たちが次々と見舞いにやってきた。次第に見舞いが夫の負担になってきたので「面会謝絶」にしたが、それでも「俺は一番仲がいい親友だから。俺だけは大丈夫」と言って勝手に病室に入り込む「友人」に悩まされたという。

    治療法の押し付けも対応が困る。がんが治った人から治療法を紹介されても、実行するのが現実的に難しいこともある。しかし、それをやらないと「嫁が悪い」「嫁が見殺しにした」と思われてしまう。

    夫ががん治療中の50代の女性は、親戚の法事に一人で参加したところ、夫の病状について質問攻めにあった。そこで気持ちを抑えて気丈に振る舞うと、「あなた何で明るく笑って喋れるの?」と言われて閉口したという。

    姑の言葉も強烈だ。13年前に夫をがんで亡くした50代の女性は、姑に言われた言葉を今でも覚えている。

    「あなたたちと同じものを食べているのに、なんで息子だけがんにならなきゃいけないの?」

    何気なく言われた言葉だったが、自分が「すごく悪いことをしてしまったのではないか」と感じてしまった。

    妻としては夫の家族に言われたことは印象に残るようで、番組に寄せられた視聴者メッセージの中にも、夫の妹に

    「こんな病院じゃ治るわけないじゃない。私の家族だったら日本一の病院に入れるわ」

    と言われたという話があった。「傷口に塩を塗られたようでした。一生彼女を恨んでいきます」とかなり根が深い。

    家族は「第2の患者」。ストレスで体調崩すことも 埼玉医科大学国際医療センターの大西秀樹教授(精神腫瘍学)は「こういう悩みは非常に多い」と語る。周囲からのストレスによって不眠や食欲不振など心身に不調が出ることがあり、家族が「第2の患者」といわれる所以になっている。それを見ている患者本人も辛いので、家族をケアすることが必要だとする。

    とはいえ、周囲も決して悪意があるわけではなさそうだ。大西教授によると、周囲も患者の家族を援助したいと思っている。しかし「どう援助していいか分からないので、結果、不適切な行動や言葉が出てきてしまう」という。

    では、具体的にどうすればいいのか。大西教授は「有害な援助」として、「安易なアドバイス」のほか、「大変な人はほかにもいる」「私はあなたの気持ちが分かる」といった言葉をあげる。相手の事情や気持ちを深く考えない言動はダメ、ということなのだろう。

    一方の「有用な援助」には、「思いを吐き出してもらう」「誠実な関心を示す」「そばにいる」の3つがあげられていた。患者の家族にアクションを起こすというよりも、寄り添う気持ちが大事なようだ。スタジオでは子宮頸がんを経験した女優の原千晶さん(40)が、

    「自分も患者だったときに、有用な援助に沿った対応をしてもらって嬉しかった。吐き出すのは凄く大事」

    と話していた。番組によると、日本人男性が生涯がんになる確率は60%。夫をがんで亡くした妻がそれだけ多いことになる。自分や家族ががんにならなくても、がん患者家族への接し方は覚えておいた方がいいだろう。


    http://yukan-news.ameba.jp/20150129-11/


      
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  • 2015年02月01日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    最期のコンサート~あるチェロ奏者の死~



    最期のコンサート~あるチェロ奏者の死~

    ・・・・・言葉で表現しないんだから
    チェロではじめて表現したらいいわけだよ
    言葉だと相手の悪口が出てきたりするけど―

    音楽では誰も傷つかないから

    だから最大の味方は
    楽器なんだよ 音楽なんだよ

    音楽は 気持ちを 感情を
    素直に表すことが出来るから
    楽器で音楽で表現するんだよ

    音楽で表現するのは
    何の罪にもならないから

    音楽で チェロで
    いろんなストレスも
    発散するといいんだよ

    だから 最大の味方は
    楽器なんだよ 音楽なんだよ

    ・・・・・・・徳永兼一郎~あるチェロ奏者の死より~

    1996年に55歳の若さで逝去したNHK交響楽団のチェロ奏者徳永兼一郎さんの最期のコンサートの模様を見ました。
    「音楽では誰も傷つかないから」という言葉は、ホスピスに入院したのちも可能な限り演奏を続けた兼一郎さんが番組の中の紹介された言葉です。

    番組の詳しい内容は、こちらの方がわかりやすく書かれています
    詩のある暮らし:http://poemculturetalk.poemculture.main.jp/?cid=35

    NPO法人子どもに音楽を:http://www.kodomoniongakuwo.sakura.ne.jp/
    子どもにこそ本物の音楽を!~夫との別離から、音楽を届ける活動を始めるまで~
    http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/jinsei/jyujitu_080303.html

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    放送で、この言葉を聞いた時に感じたのは「これって色でも同じだな」という事でした

    この音楽という言葉を「色」に変えてみると、まるでカラーセラピーだなって思いました
    そして楽器は画材と言えると思いました

    先日、友達に赤ちゃん生まれたので、久しぶりに会って話をしました
    その時に私が赤ちゃんにはぬいぐるみを、お母さんになった友達にはクレヨンをプレゼントしました

    核家族で近所に知り合いがいないなど昔の子育てと今の子育ては違うだろうし都会と田舎でも違うんだろうなって思いました。また同居していると、姑から昔の子育て論の押し付けなど色々なことがありますがクレヨンで童心に戻ってぬってみて。と渡しました。その時に私が言ったのが「色は人を傷つけないから」でした

    「言葉は人を傷つける」自分はそう思っていなくても、
    言葉は相手がどう受け止めるかで大きく変わっていきます
    明らかに「自分の受け止め方の問題」なのに、すぐに「傷つけられた」と感じる人たち・・・

    たとえセラピーであっても相手を傷つけることがあります
    聞かれたくないことだってあると思うけれど、相手が語ることで楽になることも沢山あります
    でも、言葉には相手を傷つける要素は沢山あるんだと思いました

    でも、もしも相手が本当に聞かれたくないと思っていても色を通じてなら
    言えることもあったりします。それがカラーセラピーの良さでもある気がしました

    ただ自分自身が「気付く」ことを大切にしているので、すぐに結果がでる訳ではありません
    カラーセラピーは、占いみたいに「当たる」「当たらない」でもありません

    答えは自分のココロの中にある。

    それを見つける手助けをするのがカラーセラピストの役目なんだと思っています

    そして、いつもいつも感じることですが「がんで大切な人を亡くす」ということが
    その方のその後の人生をも変えてしまうことがあるんだということです

    徳永兼一郎さんが亡くなった後で、奥さんが「子どもに良い音楽を届けたい」と
    子どもに音楽をという活動をされているそうです

    人が亡くなるというのは、その人の人生は終わってしまうことだと思います
    でも、その死が残された人の生きるちからになっているのを沢山、聞きました

    だんなさんや一緒に闘病生活を送っていた友人。

    患者会や色々な活動をされている方と話してみると、ほとんどの方が「自分のため」というよりは
    「亡くなった人のために」と活動されている方が多いということを知りました

    それは生きている自分が亡くなった人に恥ずかしくないように生きたい。という思いを強く感じました
    そして「自分のためだったら、こんな事続けていられなかった」という事でした

    自分は亡くなっても、命はちゃんと続いているんだということなんだなって思います
      
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  • 2013年08月26日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    母のメール

    早三年かよく頑張ったね。
    今度の検査も大丈夫よ。
    これからからも前向きに楽しく、明るく生活していきなさい。
    いつも見守ています。
    フワイト。

    実家に3年目検診の結果を送った時の母からの返信です

    改行もなければ、変換もめちゃくちゃだけれど母の言いたい事は痛いほどわかる

    そして「あ~あ、いつもと同じだな・・・」って思った
    いつもいつも必ず母からのメールや電話で言われるのが「前向きに生きなさい」

    これが他の人なら嫌ではないんだろうな・・・って思うんだけれど。。。

    だから、お母さんに電話したくないんよ・・・
    だから、家に帰りたくないんよ・・・

    会ってこの言葉を言われたくないんよ・・・

    もういい加減、前向きにとか言わないでよね
    こんなに頑張っている娘に一体、これ以上どうしろって言うん?
    それに、毎日のように下痢している私のどこが『大丈夫』って言えるんよって言いたくなる

    どんなに一生懸命に生きても、母が私を認めることはないんだろうなって思っている
    この人が、母でなければ・・・って思った事も1回や2回じゃない・・・・

    もし私になにかがあって母がこのブログを見つけたら、きっと母は後悔で泣くんだろうなって思う

    そのためにも、母より1日でもいいから長く生きなくては。。。
      
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  • 2012年09月21日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    うちの母

    うちの母は、ちょっと天然です

    今ではそうも言えるけれど、子供の頃の私は簡単に母の言葉で傷つけられていました

    シックマザーを読むと「ああ、こういうところって母にもあったな」と思いました

    でも、自分から親から離れていこうと思ったことと、母が言った言葉が本当かどうかを母の姉や妹、少し年齢の上の従姉妹に確かめたりして「なんや、お母さんの思い込みやん」と自分のせいではないとわかったことが沢山ありました

    私は本当は2月生まれのはずでした。
    母から言わせると「家の中に同じ干支が3人いると家が栄えるというから未年で生まれる予定やったのに、あんたが早よ生まれたからよくない」ということでした

    子供の頃は「私は生まれてこなきゃよかったのかな・・・」と思った
    私の友達は早産しないようにと子宮口を縫いました。それを聞いた時に、早く生まれるのを私が望むかもわからないし、そもそも我慢せずに生んだのはお母さんでしょ。と思った。そしたら、お母さんが言う「自分で早く生まれた」なんて、アホらしいわと思った

    誰のせいでもない事を私のせいというのは、子供っぽい母らしい言葉だなって思った

    駆け落ちして、親に反対されて一緒になったという話も、なかなかの美談かもしれないけれど、実際は私が生まれる1年後には両親とも親がやってきて私の世話をしてくれていました
    駆け落ちしたことも、反対されたことも本当かもしれないけれど、それが長引いていたという事実は1つもなかった・・・なんや、それなのに「お母さんの味方はお父さんしかいないから」ってのも、変な話やわと思った
    確かに今は、おじいちゃんもおばあちゃんも亡くなったからお母さんが実家に帰れる訳ではないけれど、その理由は「駆け落ち」ではないやんと思った
    そこは、違っているよね。と思った

    私が結婚する時には「親になにもしてもらわなかったから、あんたにも何もしない」と言われた
    それも、本当か後日、姉に確かめたら「あの子は、お見合いの相手と結納を交わしていたのに、あんたのお父さんと結婚したいと言って、破談にして結納倍返しをしてお金がなかっただけ」という話でした
    そして、お母さんが言っていた「お姉ちゃんは親が用意してくれたのに」というのは、全くの嘘で「私は借金して嫁入り支度を自分でしたんよ。だから、借金を返すまではと、結婚してからしばらくは子供も作らないで働いてた。あの子は、結婚してすぐにあんたができたし、お金なんてなくて当たり前や」と言っていた
    へえ~と思った
    母は自分を「何もしてもらえない可哀想な私」と思ってたんだとわかって、なんだか、母の言う「何もしてもらえなかった」と言っていた言葉が子供が親にいう「かまって」コールなんだとわかった

    そしたら、今まで自分が母から言われていた言葉が「どうでもいい言葉」だと思えるようになった

    そもそもが根拠のない「いい加減」な発言なんだから、それに振り回されても仕方がないんだしと思うようになった

    最近は、母が何かを言っても「ここがおかしい」という説明をすることにしました

    先日は、母が私に「出会いがないの?」と言って「私の頃には電車であった人に声を掛けられたりしたもんよ」というので私が「お母さん、今どきそんなことしたらナンパでしょ。そんなナンパしてきた相手についていったら危険やろ。そんな人についていってた、お母さんたちのほうが変やわ」と言った
    母が「えええ~~、それはナンパなんか!」というから「ナンパ以外に何があるねん。それに駅で待ってたらストーカーやろ」と言った
    母が「でも、会社の子が他の会社の人を紹介してくれたりしたで」というので「それは、今時なら合コンなんやろ」と言った
    そっか・・・・と言った母は「でも、そんな事があっても何もなかったんやから、昔の人はええ人やったんやわ」というので「昔でも、今考えたら危なかったかも。ってことはないか?昔の人だからええ人やったなんて、今時の草食男子じゃあるまいし、お母さんが気がついてないだけやろ」と言った
    そしたら「ああ!そういえば1人そんな人がいたわ。やたらと電車がなくなるまで一緒にいようって言うんよ。でも、あの時、実家やったし田舎やったやん。お母さん「帰ります」って言うて帰ったわ」と言うから「そのまま、最終がなくなってたらどうなってたかわからへんで」と性悪に言うと「でも、ほんまにそうかもしれへんな」と言っていた
    「そもそも、自分だってナンパやなんやと言いながら結局は幼馴染のお父さんと結婚してるんやから、出会いがないないというても、そこに縁があるかは別でしょ。」と言っておいた

    シック・マザーの本を読むと、いかに親子。とくに母と子の関係が深いか感じました

    お母さんの言葉で傷つけられた人は沢山いるような気がしました

    うちの母に昔「お母さんはプレゼントをしても、ありがとうと言ってくれない」と言ったことがありました
    いつまでも母は「私に傷つけられた」と言っていました
    その言葉を言うには、それなりの理由がありました

    「傷つけられた」という言葉は、わかるけれど「でも、お母さん。ありがとうと言ってもらえなかった私はもっと傷ついてたんよ」と思います

    そんな私たちは今では、どこから見ても普通の親子だと思います
    お互いに言いたい事が言える関係ができたように思います
    そのためには、どういえば相手が納得するのかを見つけることと、母の言葉が本当かどうか。を調べてみるのも大切な気がします

    人間関係において「自分だけが悪い」なんて事はない気がします

    特に親子なんて「お互いさま」なんじゃないのかな?と思う私でした

    そして、そんな母に育てられた私は、何があっても「まっ、いいか。何とかなる」と思える人になった気がします
      
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  • 2012年05月18日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    叔母と母のこと

    子供の頃、私を生んでから不整脈が出ていた母の体調もあって、歩いてすぐの母の姉の家に預けられていました。ほとんど毎日のように叔母の家にいた私は、母の体調が治ってからもテクテク歩いて遊びに行ってました。叔母の家には5歳上と4歳上の従姉妹が2人いて、楽しかったのだと思います

    でも、叔母いわく母はそれがとても嫌だったらしくて、いつも私が寝た後に父親に頼んで迎えに行ってたそうです。そのせいか、最初の私の父の記憶は「おんぶしてくれている背中」です
    その時に叔母が「子供は子供同士でいいんじゃないの」と言うと、母は「そんなことしたら家に居つかなくなるやろ」と言っていたそうです

    私にとって母は「禁止の人」でした
    母が私に何かを言う時には必ずと言っていいくらいに「OOしてはいけない」という言葉でした
    それが年を重ねるごとに「あんたの好きにしたらええ」に変化していったけれど、その言葉の裏には必ずといっていいほど「私は、認めない」「私はそんなの嫌」というのを感じていました

    私が覚えている母の一番悲しかった記憶は、中学2年生の時に転校が決まった時にお友達のMちゃんが「すももちゃん、明日うちにお泊まりにこない?おかあさんに頼んですももちゃんのお母さんに頼んであげるから」といってくれました。私は「ありがとう」と嬉しくて、家でニコニコしてMちゃんのお母さんから電話がかかってくるのを待っていました。電話がかかってきて「明日は、お泊りにいける」と母の隣でワクワクしていた私の期待を裏切って母は「行かせられません」と断ってしまいました。泣きたいくらいに(布団の中で泣いていた)悲しかった私とは反対に「そんなの当たり前でしょ」とばかりに、何も理由も言わず「ダメだから」とだけ伝えた母を見た時に「なんでお母さんはいつもそうなんやろ・・・」と思った

    いつもいつも私が楽しいことをしようとすると、理由もいわずに「ダメ」という母。

    反対に叔母は、不思議な人で自分にはとても厳しい人だけれど私や従姉妹に対して「ダメ」ということがほとんどない人でした

    ある日の晩御飯の時に、私たちは「背の青い魚」だったのが、姉ちゃんだけが「鯛」でした
    鯛といっても、そんなに大きなものではなくて猟師町だったうちの田舎では、そんなに高いわけではなかったけれど姉ちゃんだけが違う魚だから、私が「なんで姉ちゃんだけ鯛やの?」って聞いたら叔母が「この子は背の青い魚は食べれないけど鯛は食べれるからや」と言いました

    ええ??そんなん好き嫌いは絶対にあかんと言われていて、どんなに嫌いなものでも食べなくてはいけなかった私の家とは違うなって思った。そして叔母が「好き嫌いはいつか直るものやから、今は食べれるものをちゃんと食べたらええんや」って言いました

    そういえば私もピーマンと玉ねぎが泣くほど嫌いだったけど、今は美味しく食べているのだから大人になったら食べれるようになるものもあるんだって思った(でも今でも、にんじんは好きじゃないかな)

    でも、うちの母は私が「ピーマンが嫌い」「にんじんが嫌い」「玉ねぎが嫌い」と言うと偏食の多かった私が唯一好きだった「オムレツ」の中に小さく切ったピーマンとにんじんと玉ねぎをいっぱい入れていました
    絶対に残してはいけなかったから、食べてはトイレで吐いていました
    まるで学校の給食に残された子供のように食卓で1人で食べていました
    そのせいか、せっかく好きだったオムレツまで嫌いになって、形が似ているからとオムライスもしばらくは食べれなかった子供でした(オムライスが食べれるようになったのは、20歳を過ぎてからです)

    私と母は、本当に合わない親子だったんだろうなって思います

    24歳くらいの頃だったかな?会社の同僚の方のお嫁さんが子供を夏休みの間、集団合宿させるというのを聞いてお姑さんである彼女が「なんで子供を自分から離すような事をするのかわからない」と怒っていました。一緒に働いていた女性が「そんなの可哀想。絶対にダメよ」というのを聞いて、私が「別にいいんじゃないの?」と言いました

    私は子供の頃に母と一緒にいるよりも叔母と一緒にいたほうがよかったと思っていたから、絶対に子供を手元で育てないといけないという気持ちはなかったのだと思います。そして、私は長い休みはほとんどが叔母の家で過ごしていました

    その時に、その人が可哀想といってくれた彼女には「あなたは優しいわね」といって、私には「あなたはそういう人なのよね」と言いました。私は「ああ、私って冷たい人なんだな」って思った

    一般的には、子供は親の元で育つのが一番だと思う
    でも、私にとっては親と一緒にいるよりも叔母という人がいてくれたほうがよかったと思っています

    私の覚えている叔母の一番古い思い出は、八百屋さんでマスカットを買ってもらった事でした
    あの緑色のキラキラした葡萄を初めてみて「わあ、なんて綺麗な色」ってドキドキしてた
    それを叔母が見て「食べる?」と聞いてくれた
    聞いてもらえた事も嬉しくて「うん」と大きく頷いて買ってもらって家まで帰ったら姉ちゃんたちが普通にマスカットを食べてるのを見て「えええ~~こんなの食べたことあるんや」と驚いた
    姉ちゃんが「冷凍庫で冷やして、皮を剥いて食べるとまた違って美味しいんよ」っていうから、楽しみにしてお風呂上りに食べました
    その美味しかったことって、一生忘れないなって思った

    私のカラーヒストリーの中で、明るい緑は幸せな記憶と結びついています
    それって、きっとここからなんだろうなって思っています

    そして、叔母との想い出は一緒に時代劇を見ていたことかなって思う
    叔母は市川雷蔵が大好きでいつも「眠り狂四郎シリーズ」を見ていました
    なぜか私は、子供なのに時代劇が大好きで叔母の隣で一緒に「眠り狂四郎」を見ていました
    今考えたら、けっこうエッチなシーンの多い映画だったけど、叔母は一度も「ダメ」ということもなく私が「この人、綺麗な人やわ」というと「そうやな、でも、こういう綺麗な人は長生きできひんのよな」と教えてくれました

    他にも「遠山の金さん」の中村梅乃助さんに天地茂さんが大好きな子供でした

    叔母は「子供だから・・・してはいけない」というのがあまりない人だったのだと思います

    そして、私が仙台で入院していた時に従姉妹に付き添いに行くようにしてくれたりと本当に困った時には思いがけない形で助けてくれる人です

    母は、私が仙台に行くと決めた時にも「あんたの好きにしたらええ」とは言っていたけれど、やっぱり「地元ならいいのに」や「仙台は遠いからお見舞いにもいけない・・・」などと言っていました

    母は、きっと何か言わなくては気がすまない人なんだろうなと思います
    でも、それは母なりの愛情表現なのだと思いました

    母が仙台まで、お見舞いに来た時にも、あまりにも話が長くて、私が疲れていたら見かねた父が「すももが疲れているから」と言うと「私が言うのが気に入らないの」と怒っていました
    母にしてみたら、もっと大変そうだと思っていた私が一見、そうでもなかったのが嬉しかったのだと思うけれど、その少し前に手術をしていた父親にしてみたら私の体調が心配で仕方がなかったのだと思います

    母は母なりの愛しかたで私に接してくれていたのだと思います
    ただ、子供はわかりやすい人が好きなのだと思います
    自分に「~~してはいけない」という人よりは、かならず自分の目線で話してくれたり自分の意見を聞いてくれる人が好きだったのだと思います

    それは自分は愛してもらっている。認めてもらっている。受け入れてもらっている。と感じるからなのかな?と思いました。そして、それは母親でなくてもいいし、私のように叔母でもいいと思います
    案外、近所のおばさんかも知れないし。
    でも、離れていても自分のことをちゃんとわかっていてくれたんだと気がついたら、大人になった時に「ありがとう」と言えるようになると思います

    私もやっと母にそう言えるようになりました

    私にとっては母も叔母もいなくてはいけない人だったのだと思います
    どちらがいなくても、今の私ではないんだろうなって思う大切な人です
      
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  • 2012年04月11日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    血のつながり

    実家からお米が送られてきました

    うちの母親の実家が農家なので、お米は家から送ってもらっています
    「まあ、たまには電話してみるか。。。」と思って電話してみました

    母との確執はここでも色々と書いていますが、病気をしてからしばらく経ってから
    何となくですが受け入れることが出来てきました

    そんな母と、私の会話の中心は「韓国ドラマ」です

    母は3年くらい前には「私は絶対に、はまらない!」と断言していたクセに今では、かなりどっぷりでとうとう「5月に友達と韓国旅行に行ってくるね~~」と言っていました

    まあ、それも元気なうちやし「ええやん」と言っていた
    私にも「パスポート作ったから一緒に旅行に行こう」って言って「一生に1回くらいハワイに行きたい!」なんて言い出すし・・・ただ、リンパ浮腫がつらい私としては「もうちょっと近いところにして」と言っていました。

    ただ母が元気なうちに1回くらい旅行に行ってもいいかな。なんて思っています

    電話の時に、従姉妹の姉ちゃんの話になった
    母が旅行に行く相手を探していて、自分の姉に聞いてみたけれど「今回はパス」と言われて
    それなら、姪っこに聞いてみようと言って姉に「連絡先を教えて」と聞いたらしい

    その時に叔母に「あの子の事は、かまわんといて」と言われて「すももにきついことを言われたみたいや」と言われたらしい

    母に「あんた、何を言うたんや」と聞かれて、そもそも従姉妹の姉ちゃんと話をしたのも、かれこれ2年以上前の話で、しかも姉ちゃんがあまりにもきついことを言うので「私も体調が悪いから、また元気になったらメールします」とメールで送ったのが最後なので、何がどうなってそんな話になったんやろ??と思った

    ただ、姉ちゃんの不調は母も前から気がついていたので「まあ、あの子なんか変やったから」といっていたので「あんただけが悪いとは思えへんけどな・・・」と言っていた

    姉ちゃんが私に言っていたのは、退院後すぐの私に「あんたには人の生き死には、わからへんのや。でも、私にはわかる」とかよくわからないことばかりでした
    がん患者の私に、しかも同室の人が亡くなったりしているのを見ている私に、なんでそんなひどい事が言えるんやろ・・・と悲しくなっていた(姉ちゃんは手術後の私の世話をしてくれるために仙台まで来てくれていたので、私の状態は誰よりも知ってくれているはず)あとは、末期がんの人に貰った仏像をどうすればいいのかという話を何度も何度も聞いてきたりするけれど、こちらの話はまるで聞いていないし、一方的に話し続けるなど違和感のある事が沢山あった

    叔母にも「なんかおかしいで」と言ったのですが、その時には「気にしなくてもいいから」と言っていた

    でも、それからもう2年以上も経っての「すもものせい」は、ないよな・・・って思った

    ただ、その時に思ったのは「きっと、姉ちゃんと最後にちゃんと話をしたのが私だったんだろうな」ということでした。1人暮らしで毎日毎日、家にいて誰とも接することも無くて働くこともなく、買い物に行くのも夜のコンビニだけという違和感のある生活を送っていた姉ちゃんと外の世界を結んでいたのは、その時、退院したばかりの私だけでした
    今なら、その危険性もわかるけれど、その時は自分の体調の悪さのほうが大きかったから姉ちゃんのつらさまでは気がついてあげれなかったのだと思った
    たった1つ、外とのつながりだった私が電話やメールをしなくなって姉ちゃんと外の世界を繋げるものは無くなってしまったのかもしれないなと思った

    母が『友だちなら切ることもできるけど、血のつながりがあるからそれもできひんし、余計にあんたが憎いんとちがうやろか?』と言っていた

    姉ちゃんからうちの母に電話がかかってきた時に「ずっとあんたの事を心配してくれるんやけど私の話も聞かへんし、なんやけったいやったんよな」といって「そんなに、あの子が心配なんやったら会いに行ったってくれへんか?」と言ったらしい。でも、その母の問いかけにもまともに答えることもなかったそうです

    それからの姉ちゃんがどうなっているのか、よくわからないです

    もう1人の従姉妹に聞いても「そっとしといて」しか言わないし・・・
    従姉妹は私が言われていた内容も知っていて「あんたの体調がわるなるから、もう連絡せんとき」と言ってくれた人なので「あの子の事は、あんたのせいやないから、気にせんでええよ」と言ってくれました

    ただ、そういう人と話した経験がある私としては家族が「本当に危険かも」と思うくらいになるまでって、結構時間が経ってから気がつくという事が多いそうです

    家族だからこそ「何とかなる」「大丈夫」という気持ちが強いのだと思います


    今回のことで、母が私に言ってくれたのは、昔からいつもいつも母が私に言う言葉があって

    『あんたの好きにしたらええ』でした

    でも、その言葉には本当は、続きがあって

    『あんたの好きにしたらええ。でも、困った時には何とかしちゃるから』でした

    初めて言われた言葉でした

    いつもいつも突き放すように『あんたの好きにしたらええ』としか言わない母親だったから
    「なんて冷たい人やろか」と思っていた

    事実、自分のできることは自分でしい。っていう人でもあったから、私も今までほとんど頼ることがなかったし考えたら、それはそれで今の私の強さにもなっているのかなと思った

    良くも悪くも『血のつながり』って、やっぱり強いなって思った出来事でした
      
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  • 2012年03月21日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    うちのお父さん

    いつも『がんと家族』というと母親との関係を書いていることが多かった気がしますicon_maro

    でも、自分の色と歴史で親との関係を考えた時に、どうしてもお母さんの色が見つからなかった
    子ども時代の私にとって、母は近くにいて一番遠い人だったと思います

    反対に、お父さんはすぐに「青」って思いました

    そして、私の一番最初に好きな色で選んだ色が「黄色」と「青」でした

    私が生まれた時に1800グラムしかなくて、しかも敗血症を発症してしまい
    医師からは「あきらめてください」といわれたそうです
    その時に、3日間血小板交換をして助かったそうです

    小さくて保育器の中に入ってた私は、母乳を飲むこともできなくて
    注射器でミルクを飲んでいたそうです

    お母さんが言うには、小さくて抱っこすることができなかった私のお風呂はお父さんの仕事だったそうです
    そして、お父さんが言うには、小さかった私はお父さんの片手しかなかったそうです

    私が具合が悪くなった時に病院に連れて行ってくれるのも父親で
    ある日、背中に水がたまって「痛い、痛い」という私を
    家から少し離れた大きな病院に連れて行ってくれました
    その時に先生に「背中に水がたまっているので、注射器で抜きますね」と言われて
    先生が、すごく大きな注射器を出したら
    父親が「可哀想で見てられへん!」と、部屋から逃げてしまいました
    子ども心に「なんちゅう、お父さんやねん・・・」と思ったけど、看護婦さんに「大丈夫?」と聞かれて
    「大丈夫です」と答えたのを、よく憶えてます
    で、無事に処置が終わった私に、お父さんが「大丈夫か」と行って、帰り道におんぶしてくれました

    うちの父親は、関西人らしく「鉄板のお笑いネタ」の沢山ある人で、色んなものがあります

    ある日急に「姫路城が見える家に引越しする」といって、
    私が中学2年の3学期に山の上に家を建てて、転校させたり・・・
    かと思ったら、自分の定年まじかになると「こんな山の上には住まれへん」と
    またまた引越しを決めてしまったり・・・・
    さすがに、この時ばかりは母親が「私が家を決めます」と引越し先を決めたけれど、
    母が言うには「お父さんに決めさせたら、とんでもないことになる」といっていました

    父親の「OOしちゃる宣言」は、子どもの私には「とんでもないこと宣言」でした

    ある日「魚取りに行くぞ!」と言い出したと思うと、田舎の川に行って(母の実家の前にある小川)
    私たちが網を持って(ご近所の友達も連れて行った)「わーーーーい!!」と川に入ろうとすると
    「川に入るな!」と怒られて、子どもたちは「なんで??」状態でした
    そしたら、父親と叔父さんが川に電気を流してました
    しばらくすると魚が、プルプルしながら浮いてきて父親が「ほら、すくえ」って・・・
    「おいおい・・・これって、魚取りと違うやん・・・」と思いながら、すくってました

    またある時には「今日はわしがめっちゃ美味しい蒸しパンつくっちゃる!宣言」
    で、山のように作った蒸しパンを「ご近所に配ってこい」と言って
    配り終わってから、さあ、みんなで食べようって「ぱくっ」
    「えええ!何、この歯が折れそうな蒸しパン!」「あっ、膨らし粉忘れてた!」
    ご近所に配ってもたやないの・・・と、後の祭りでした

    「カレー作っちゃる宣言!」もあって、食材を全部ミキサーにかけて
    「これですぐに煮込めるからええんや」と言って、少しだけ煮込んで食べたら
    口の中がザラザラして、食べれたものではなかったり・・・

    私のアトピー性皮膚炎に効くからといって、マムシを焼いて食べさせたり・・・

    そんな事は、日常茶飯事でした

    本当に、家族みんなを振り回して生きている人だし、反発したりもしました
    でも、嫌いではなかったんだろうなって思います


    母曰く「小さくて既製服がなかった私」に、母が服を作ってくれていました

    そして夏休みになると、お父さんが「布買ってきちゃったぞ」といって
    私とお父さんとお母さんにお揃いの洋服を作ってくれと言って布を買ってきました
    それで、お母さんが、私とお母さんにはお揃いのワンピース、おとうさんにはズボンを縫っていました
    1枚ですが、白地にブルーのヨットの柄を着た私の写真が残っています
    写真が好きだった父親が、色んな写真を撮っていました

    私が一番好きな写真は、新幹線のホームでパンダのぬいぐるみを抱っこしている私です

    ぬいぐるみは、ある日いきなり母に捨てられて泣いて文句を言ったけれど
    父がこの写真を撮っておいてくれてよかったなって思いましたicon40



    でも、この「パンダちゃん」を買ってくれたのは、父のすぐ上の兄(叔父さん)でした
    叔父さんが「女の子がいないので遊びにおいで」といって
    父が新幹線のホームで私を乗せて叔父さんが私を受け取ってくれました

    私にとって新幹線の「青」は、自立の色でもあるような気がします

    お父さんが買ってくれたのは「キティちゃん」というと「ミッフィーちゃん」になったり
    「りかちゃん」というと「チューリーちゃん」に変化したりと
    子ども心に「なんでやの・・・」と思っていましたicon_maro06
    それなら一緒に買いに連れて行ってくれればいいのに「驚かしてあげよう」とか
    「喜ぶ顔が見たい」と思っている人だったので、喜ばないと大変でした・・・face07

    でも不思議なくらいに父親に似ている私は、お父さんが脳腫瘍になった後に、がんの告知を受けました
    同じように放射線治療を受けたり・・・不思議なものだなって思いました


    絵本を紙芝居にして色々なところで披露している父と久しぶりに話をしたら
    「今、泣いた赤鬼の絵本を書いてる」と言っていました

    昔々、父親が私に読んでくれた絵本です。

    でも、本人はすっかり忘れていたみたいで「私、泣いた赤鬼の絵本好きやったわ」と言ったら
    「そうやったんか」と言って、私が「あの、立て札のところが悲しくて・・・」というと
    「そうやな。『私は心の優しい鬼です』ってところやな」と言っていました
    どこかで似ているんだろうなって思いました

    愛すべきキャラだった父親も今は、普通の人みたいになってますmomiji

    現在の父の色は、ちょっと元気がなくなってしまったので以前よりも暗めの「青」です  
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  • 2011年11月22日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    母の電話

    お父さんからメールが来て『最近、お母さんが寂しそうやから、たまには電話したってくれ』って書いてた
    あんまり乗り気ではないけど、久しぶりにお母さんの話相手になってみよって思って電話をしてみたんだけど・・・
    またまた始まった「あんたは1回死んだ子なんやから・・・大丈夫」話。
    本当に、もうどうしようもなくその話が嫌な私としてはほどんど相づちも打たないで聞いてた
    なんで、そんなに「1回死んだ子」って言わなきゃいけないんだろう?と思った
    でも、ふと思った・・・
    もしかして、お母さんってずっとずっと私が生まれた時から、それを背負っているのかもしれないなって
    「この子は死ぬかもしれない」「この子は長くは生きれないかもしれない」って
    だから、私が生まれた時の感想を聞いても「嬉しかった」とかって記憶がないんだなって
    ただただ「死ぬかもしれない」ってことだけだったのかもって・・・
    そう思ったら、お母さんの不安ってどれほどのものだったんだろうなって思った

    先生から「あきらめてください」って言われて、血小板交換を3日間も続けて
    そして、やっと生きた子供だけれどあまりにも小さい体の私は抱くことすらできなかった(らしい)
    お風呂に入れるのも、手の大きなお父さんの役目だったそうです
    だから、私の記憶の中にお母さんはほとんどいないのかも知れない

    あまりにも小さい体だった私は、市販の洋服もなくて、ほとんどが手作りでした
    小さい時の私の洋服は、お母さんの手作りだったのはそういう事だったんだってわかった
    だから、お母さんに愛情がなかったわけではないと思う
    でも、不思議なくらいに「お母さんに懐かない子供」だったそうです

    そんな私が、今度は「がん患者」になってしまった
    今度は本当に死んでしまうかもしれない
    そう思ったら、私を生んだ時の記憶が蘇ってきたのかな?って思った
    だから、何度も何度も「1回死んだ子やから・・・」って言うのかも知れないなって思った

    もしかしたら、この病気を一番受け入れたくないのは、母なのかも知れないって・・・そう思った

      
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  • 2011年09月26日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    母の電話

    年末に久しぶりに母親と話をした時に「帰っておいで」と言ってくれました

    子供の時から、不思議と母親に懐かなかったから今でも少し距離を置いてしまう自分がいます
    そんな母親に「大変だろうから帰っておいで」って言われるとは思っていなかったから
    ちょっと嬉しかったです

    でも、今週電話をしたら「帰ってきても仕事もないし、病院の事もあるから生活保護を受けても
    そっちにいたほうがいい」と言われました

    実家に帰っても上手くはいかないだろうなって思ってはいたけど
    心の中では家に帰ったら・・・って何度も何度も考えていた

    そして、きっと親も同じなんだろうなって思った
    何度も何度も「娘が、帰ってきたら」って考えて、やっぱりダメだろうなって思ったのかなって

    不思議なもので「きっと上手くはいかないだろうな」って思うけど
    「帰ってこなくていいよ」って言われるのは、どこかでつらいな・・・って思っている自分がいる
    いつも私が近づいていこうとすると、そうやって突き放される
    もう慣れたことだけど、やっぱりどこかでつらくなる自分がいる

    結婚している人がうらやましいな。なんて思う事がある
    病院に入院していると、不思議と「OOさんの旦那さん」ってセットで覚えている
    おじいちゃんがおばあちゃんの車椅子を押して、廊下を歩いているとうらやましいなって思った
    あんな年齢になっても、仲良く一緒にいられるのって幸せなんだろうなって
    毎日のように孫や子供が入れ替わりお見舞いにくる人。
    色々な人がいた
    私には家庭もなければ、旦那さんもいない。もちろん、もう子供もできないし・・・

    母親に「もう私は孫を抱くこともできないんだし」と言われた
    「そうだよね、私にはもう無理だしね」って言った
    当たり前の事だし、気を使ってくれとも言えないけど・・・
    それに、がんにならなくても結婚したかどうかはわからないんだから、子供を産んだかわからない
    でもな・・・それなら、1人で生きていけるような仕事をしろ。とか
    学歴の高い人と結婚してもつりあわないから。とか言わないで「女の子は結婚して子供を産むのが幸せ」って教えてくれればよかったのに、なんで結婚したいっていうと片っ端から反対してたの?って言いたい自分がいた

    電話を切る時に、何度も何度も「前向きに生きなさい」と言われた
    いつもいつも。
    がんって言われてから、聞きたくもないのに何度も何度もそう言われた
    どんなに明るい話題をしていても、最後には否定されているように聞こえる

    あなたには、私はそんなに「後ろを向いて生きているように見えるんですか?」
    そして、親なら「前向きに生きるって何か教えてくれればいいのに」

    この病気になって思うのは「人の言葉に傷つかない心が欲しい」という事です
    人は、たとえそれが親であっても私が望む言葉はかけてくれない
    それなら、そんな言葉で振り回されないような人になりたい  
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  • 2011年02月25日 Posted by すもも at 00:00Comments(2)がんと家族

    妻の乳がん、夫にうつのリスク

    がんは患者本人に苦しみをもたらすだけではなく、配偶者にとってもストレスになる。乳がんにかかった女性の夫ら男性パートナーが、うつ病などで入院するリスクを調べた論文が、キャンサー誌電子版に9月掲載された。

    デンマークの30歳以上の男性で、妻ら女性パートナーと5年以上同居している116万2596人を最長13年追跡した。この間に2万538人の妻らが乳がんにかかった。男性のうち1万2365人がうつ病を中心とする感情障害で入院したが、このうち180人の妻らが乳がんにかかっていた。

    その結果、妻らが乳がんにかかった場合には、かからなかった場合と比べ、うつ病などで入院するリスクが1.39倍に上がった。このリスクは、妻らの乳がんが進行しているほど(腫瘍が大きい、リンパ節転移の数が多いなど)高くなった。

    また、妻らが乳がんにかかった男性の中でも、妻らの乳がんが再発した場合は、再発しなかった場合と比べて、うつ病などで入院するリスクが1.54倍に上がった。妻らが死亡した場合は、死亡しなかった場合と比べて、リスクが3.63倍に上がった。



    がん患者の配偶者でうつなどの心理的問題のリスクが高まるという研究はこれまでもあったが、入院に至る重い病気のリスクを調べたのは、今回が初めてという。デンマーク国民に与えられているID番号を使い、人口登録、がん登録、入院登録など各種のデータを結びつけて行った、全国レベルの大規模な調査だ。

    ところで、この論文の著者は日本人だが、論文の電子版が9月に公表された際には、米国ABCや英国BBCをはじめ世界で報道された。しかし日本のメディアが取り上げたのは、筆者の知る限り、米国の健康情報を翻訳した1件のみだった。こうした情報鎖国ぶりによって、世界最新の医療情報が日本の市民のもとに届くのが阻害されているのではないかと懸念される。

    (2010年11月22日付 朝日新聞東京本社夕刊から)

    坪野吉孝 東北大教授:https://aspara.asahi.com/blog/medicalreport/entry/aDjHBEvikP

    この記事は、自分自身が「がん体験者」である人間にとってはつらい記事だと思います
    自分のせいで相手が「うつ病」になるなんて・・・って思います
    私も手術後、白髪が一気に増えました
    これはストレスなのか加齢なのかは不明ですが、私たち患者の間では「全身麻酔のせい」にしてます
    手術後に白髪や脱毛が増えるからです
    これは、ストレスが関係しているとは思いますが、全身麻酔や手術や入院・通院でストレスを抱えない患者なんていないですよね

    ただ、この記事の最後に書かれている「ところで、この論文の著者は日本人だが、論文の電子版が9月に公表された際には、米国ABCや英国BBCをはじめ世界で報道された。しかし日本のメディアが取り上げたのは、筆者の知る限り、米国の健康情報を翻訳した1件のみだった。こうした情報鎖国ぶりによって、世界最新の医療情報が日本の市民のもとに届くのが阻害されているのではないかと懸念される。」というところが気になりました

    最近、気になっていましたが色々なテレビ局で紹介されている「名医の治療」や「最新治療」などが
    実は世界のスタンダードだったりする事もあります
    確かに日本人の外科技術は世界的にもレベルが高いといわれています
    でも、世界的には一般的なものまで日本では最新治療と言われてるのはどうなのかな?って思います  
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  • 2010年12月23日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    家族ががんになったら~母~

    先日、会った友達が母が1回目のがんになった時に『うつ』になったと教えてくれました

    その母は、今年の1月に2回の原発がんのあと3回目のがんが元で亡くなりました
    その一番初めのがんの時に友達が「うつ」になったそうです
    家族ががんになるというのは、自分自身がなるのとは違うものだと思います
    でも、まさかあの友達がと驚きました
    いつも冷静な人なので、そういう事はないのかな?って思っていました

    「母が亡くなったら、私はどうやって生きていけばいいんだろう」って思った
    そして、本当に亡くなった今、私はその自分が考えたシュミレーションを行っている気がする
    そして、亡くなってからが一番、母と話をしてみたいって思ったのよねって教えてくれました

    二人で母のアルバムを見ながら、色んな話をしました
    友達は、母のアルバムを持って親戚に話を聞いていたそうです
    母が話していかなかった事を、探しているようでした

    母は、看護婦さんでした
    そして、満州からの最後の引き揚げ船に看護婦として乗り込んでいたそうです


    ※母のアルバムには、この船と同じ写真が貼ってありました。でも、名前はわかりません。

    すごいな~~母の歴史は、日本の戦中・戦後なんだなって言いながら見てました
    母から話を聞きたかったねって言ってた
    どんなに聞きたい事があっても、人は亡くなってからその人と話をする事ができません
    それだけが、悲しいですね

    母は友達の家で闘病していました
    それを、友達は母にとって幸せだったのか悩んでいたそうです
    今、家族が病気になった時に『よりよい治療を』と実家での闘病ではなく都会での闘病をさせようとする
    家族が多いそうです
    確かに私もそう思います
    でも、果たしてそれはその人にとっていい医療なのでしょうか?
    友達は住み慣れた土地・ご近所付き合いなど母には母の生活があった
    それを自分の家にこさせる事でよかったのかな?と思っていたそうです

    でも、最後の時が近づいて来た時に母が「家に帰りたい」と言ったそうです
    それは、自分がいた家ではなく友達の家だったそうです
    それを聞いた友達は、医師にお願いして外出させて家につれて帰ったそうです
    そして、たった4時間でしたが母は家に帰って自分が好きな猫たちと挨拶をして
    大好きなアイスクリームを食べて、病院に帰ったそうです

    母の意識がきちんと戻ったのはその時が最後だったそうです

    友達は実家から母を連れて闘病させたことをずっと「それでよかったのかな?」って思っていたそうです
    でも、最後に「帰りたい」と母が望んだ場所が実家ではなく、自分の家だった事が嬉しかったと言ってました

    私もそう思います
    そして、母もそれを望んでいたのかも知れません
    文句を言い合っていても、やっぱり家族でいる事は楽しかったのではないのかな?なんて思ってます
    友達の家と母の家は、車で20分ほどの場所でした

    ただ、自分の生活圏ではないところで住んでしまうと親戚だったり兄弟だったり友達だったりに会えない事もあります
    そういう事が患者にとって幸せかというと、私自身はあまり進められません
    病院と言う場所自体のストレスも大きい中で、見舞ってくれる人がいないのは本当につらいことだと思います
    人って、家族だけで成り立っているのではないと思います
    色んな人とのかかわりで形成されているのが社会なのだと思います
    できれば、その人が暮らしている場所で治療が受けれるのが一番かなと思います  
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  • 2010年12月10日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    家族との確執

    月曜日に病院の待ち合い室でお隣りに座った、おばちゃんが乳がんの人やった。

    去年の5月に手術したらしい。

    そのおばちゃんが色んな話しをしてくれた。
    癌を見つけた時『なんで私なんやろ?』って思ったって事。

    抗がん剤で髪の毛が抜けて、やっと生えてきた髪がチリチリでどうしようかと思ったけど、
    今は大丈夫。って事。

    抗がん剤のせいで、ずっとお腹の調子がよくないとか、すぐにぶつけた所があおたんになるのとか。
    抗がん剤で指先と目元が真っ暗になってしまった事。

    放射線で顔が腫れて、怖くて先生に言ったら『そんなのは関係ない』と言われて、
    残り2回の放射線治療の間、先生が1度も自分を見てくれなくて、話しもしてくれなくて悲しかった事。

    病院で友達になった人の6人のうち、3人が亡くなってしまった事。

    おばちゃんが『今はすぐに余命宣告するんよ。ドラマなんかだと家族だけにするみたいなのに、
    そんな事ないんよ』とか。

    余命宣告された友達のうち、1人はそれより前に亡くなって、1人は少しだけ長生きしたの。とか。

    その話しをしながら、ふと満員の待ち合い室を見て『ここにいるみんなが生きれる訳じゃないのよね』って言った。

    そうやなと思った。
    一体、どれくらいの人が癌やと言われて、この待ち合い室にいるんやろって思った。

    私が見てもらった先生のいる診察室にも何人もの人が入って行った。
    その人たち全てが癌や筋腫といった病気なんやなって。

    血液検査が終わって、おばちゃんは1年後の定期検査に行くために、私は会計に行くのに2人でエレベーターに乗った。

    おばちゃんが私に『お姉ちゃん若いんやから、絶対によくなるからね』って言ってくれた。
    私も『おばちゃんもね』って言ったら『私はね、絶対大丈夫だと思ってるの。だから大丈夫!』って言って、最後に私に『頑張ってね』と言ってくれた。

    私はずっと誰かに『頑張って』って言われるたびに『一体、何を頑張ればいいんやろ』と思ってた。
    頑張る事が何かわからへんし。
    でも、ホントに頑張ってるおばちゃんに『頑張って』と言われた時に、素直に『うん、ありがとう』って笑顔で言えた。
    たった1時間半しか話してないおばちゃんやったけど、ものすごく嬉しかった。

    私は、お母さんにこの話しをしたかった。
    だから電話したのに、結局はいつものように自分の話しになって。
    それも、私にはおばちゃんの事より大事な話なんかなかった。
    それを怒ったら、『何も言ったらあかんの』って言われて。
    私が病気なんやし、私が電話して話を聞いて欲しかったんや。
    病気になってからも、その前もいつもいつも、お母さんは自分の話ばっかりやん。
    『お母さんはこうやから』って、私はお母さんじゃないし。
    私がどんな気持ちでいたと思うんよ。って言った時に『そんなんわかる』って言うたけど、どこがわかってくれてるんやろ。って思った。

    私が癌って言われて一番始めにした事が『片付け』と荷物を片付ける為の『整理リスト』やった。
    でも、癌になった友達に『荷物整理してるん違う?』と言われて『なんでわかるん』って聞いたら
    『私も一番始めにしたのが片付けと子供の入学式の服を用意した事やったんや』って。
    でもな、そんなんどうでもいいやん。今は自分の病気を治す事だけ考えよって言われて、ああ、そうやなって思ったんや。

    お母さんがいう事もわかる。
    でも、『お母さんが旅行に行って帰ってきた時に』は、結局は私じゃないやろ。
    私が病気で、しかもいつ再発してもおかしくないし、今、転移してても、5年後死んでてもおかしくない私の事じゃないやんって思った。
    私は、お母さんの考えてる理想の娘じゃないのもわかる。
    いつも私に『あんたは1回死んだ子やから、なにしても勝手にさせてた』って言うやん。
    それは、どうでもいいって事なんかなって思ってた。
    たとえそうでも、そんな事は聞きたくなかった。
    お母さんが言う、私の勝手は私にはわからへんし。
    自分が若い時は家に居て、お給料は全部入れて、親からお小遣をもらって、そのうえテレビも電化製品はみんな私が買ってあげてた。
    それが理想の娘やったんやろなって思う。

    お母さんが私に電話してきて『お父さんの腫瘍が1㍉小さくなってたんよ』って言った時、私はMRIの検査の日やった。
    造影剤を入れて気持ち悪いのと、待ち合い室で見た自分とそんなに歳の変わらない寝たきりの人が忘れられなくて、
    私もあんな風になってしまったらどうしようって思ってた時やった。
    ずっと、いつ癌って言うか悩んでたけど、あの嬉しそうな声を聞いたらやっぱり今日は言われへんなって思った。

    私は、ずっと迷惑で勝手でわがままな娘やと思う。
    私は今でも、お母さんがどうしたら喜んでくれるかわからへんし。
    だから変わる事はないと思う。
    でも、私の『遺言』やと思って。
    お互いあと5年、生きれるか生きてないかわからへんし。
    あと少しかもしれへんと思って、私のわがままをきいて欲しい。
    私の話もきちんと聞いて欲しい。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    この後、母親が言ったのは「あんたは前向きに生きてない」でした
    がんと告知されて1ヶ月足らずの時でした
    確かに「前向き」ではない文章かもしれない
    でも、生きるか死ぬか。娘がどうなるかわからない時であっても、あなたはそうなんだなって思った

    友達が悩んでいた時に、お母さんが「あなたは私の娘なんだから大丈夫」って言われたと言っていました
    私もそう言ってくれる母が欲しかったかな・・・

    なんとなくそう思った  
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  • 2010年12月07日 Posted by すもも at 00:00Comments(2)がんと家族

    がんと結婚

    『がん患者と結婚したいですか?』

    先日、女優の原千晶さんががんを告白されて結婚報告されましたね
    同じ患者として、とても嬉しいことだと思います



    ただもし、あなたの彼女や彼氏が「がん」になったら、どうしますか?

    血が繋がった親と子でも、うまくいかなくなってしまったりする病気です
    果たして血の繋がりもない交際相手が、がんになったらどうしますか?

    私の「がん友」さん達は、ほとんどの方が結婚されています

    ただ、入院中に知り合った人の中には、私と同じように独身の人がいました
    「結婚できるんかな?」「彼氏できるかな?」って話をした人もいます

    退院後に知り合った人でも、彼氏が手術までは一生懸命だったけど退院してしばらくしたら
    「別れよう」と言われた人もいました

    私の友人でも、何名かがんに罹患した人がいます

    中にはそれだけの理由ではないけれど、離婚した人もいます

    私のように子宮がなくなってしまった場合、がんという病気だけではなく子供を産むこともできません
    これは若くしてがんになった患者さん皆さんが抱える悩みだと思います

    無くしてしまったものは、どうやっても戻せないのです
    子宮などは、見た目はなんともないけれど、でも、体の変化や気持ちの変化があります

    そして、乳房にメスを入れる乳がんの人の悩みもとても大きいと思います

    現在は、手術の傷跡が残りにくいといわれている縫合方法で縫ってくれる病院が増えてきました
    その為、私のように15センチの傷跡がある場合でも、傷自体はほとんど目立ちません
    でも、果たしてそれは傷だけの事なんでしょうか・・・

    そして、もしも自分が好きになった人が「がん患者」だったら?
    そして、がんに罹患してしまったら、どうしますか?

    「そんなの関係ないでしょ」って言う人がいたら、それが自分の息子や娘の相手だったら?
    そして、兄や姉、妹や弟の相手だったらどうしますか?

    無条件に「いいわよ」って言うのでしょうか?
    自分の友達なら「そんなの関係ない」かも知れないけれど、自分の身内だったら?

    私は患者です。でも、患者の私でも自分の身内ならなんていうだろうって思います

    例えば子供が欲しいと願った場合、今の日本では「借り腹」というのはできません
    よく「卵巣があるんだから、子供もできるよ」と言われます
    でも、正直なところ一般人の私が欧米に行って、お腹を貸してもらうような事ができるとは思えません
    何千万円もかかるような事ができるほどの金銭的余裕はありません
    では、お腹を親に借りる?そんな70歳がこようという親にそんな事を頼むような真似はできません
    あれは、やはり一部の方しかできないのではないでしょうか?
    「本当に自分が子供が欲しいならできるわよ」と、勝手な事をいわれたりしますが
    じゃあ、今、子供を作って(何千万円もかけて)自分はいつまで生きれるという保障があるの?
    もし、治療費がかかってしまったらどうすればいいの?って思う

    現在は再生医療で子宮を作るという研究がされているそうです
    若くて子宮を無くしてしまった人や先天的に子宮のない方に移植をするために研究されているそうです
    すごいな・・・って思います

    そういう医療が受けれる世の中になるのが早いのか、がんになる患者さんが減るが早いのかはわかりませんが、患者にとってつらいことが少しでも減るような世の中になって欲しいなって思います

    そして「がん患者」であってもなくても、がんを理解してくれるような世の中になって欲しいなって思います  
    タグ :がん結婚
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  • 2010年11月17日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    患者の時間

    『5年後の自分』って考えられますか?

    がんになってから、何年後の自分っていうのが考えられなくなっているって思った
    今日、明日、来週、1ヶ月後なら考えられるけど・・・大きな時間では考えられなくなってる

    ある家族の方に話を聞いた時に、自分は来年はこうしよう、ああしようって言うと妻はそんな先の事は
    考えられないと言った。自分は、もっと生きていて欲しいから来年や先の話をするのに、考えてくれない。
    そして、奥さんは末期がんで8ヶ月後に亡くなってしまったそうです

    患者にとって1日は今までの倍や3倍くらいなんじゃないかなって思う
    そして、この日、この時が大切だからって思っている
    でも、家族は違う。1年は1年でしかない・・・
    だから時間の流れが違うんだと思う。それは、どうしても埋めれないものかもしれないなって思う

    だったら、そばにいる人は何をしてあげればいいか?

    『今日は、何をしたい?』って聞いてあげて欲しいと思います
    あしたでもなく今度でもなく、来年でもなくって、今日何がしたい?でいいと思います
    それが『美味しいもの食べたい』でも『散歩したい』でも『映画が見たい』でも、なんでもいい

    相手が今日、この時間を大切にしてくれているってわかるようにってしてあげて欲しいと思います

    そしてその為に話をして欲しいって思います
    どんなつまらない事でもいいから『今日、こんな事あったよ』と話をして欲しいって思います

    何も言わないでいられる事って一番つらいと思います

    今まではそうだったから。と思うかもしれない。
    でも、患者はもう今までとは同じじゃないんだと思って欲しい
    同じ日常を送っていても、きっと同じではないんだと思う

    そして先の事は、考えるのがとても不安なものでもあります
    もし、自分が再発していたら、もうこんな風にできなかったら
    そして、自分が生きていなかったら・・・
    だからこそ『今日』が大切なんだって思ってしまう

    家族の人の『前向きに生きて欲しい』というのを聞きます。そして『がんばって欲しい』。
    でも、前向きってなんだろうって思う
    来年のことや3年後、5年後を考えてくれたら前向きなんだろうか?と思う
    それって、あなた自身が生きていると思えるの?事故にあったりしないの?と思う
    たとえ1日であってもいいと思う。一生懸命生きてこう。って思っているなら、それはとても前向き
    なんだと思う。ただ、それは周りの人に理解してもらえないだけだと思う
    そして、自分が考えてる『前向き』を患者に押し付けてない?って思う

    『がんばって欲しい』というのも同じだと思う。
    こんな時代に頑張ってない人なんていないはず。それは病気の人間だけじゃない。
    普通に生きてる人だって同じだと思う。そして、がん患者を支えている家族も同じだと思う。
    『頑張って』じゃなくって、本当は『がんばろうね』だと思う。

    そしたらきっと『5年後の自分』が見えてくる気がします

      
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  • 2010年09月14日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    がんと家族

    がんになったら、家族が守ってくれるって思ってますか?

    患者さんに聞くと、結構『そうでもないよ』といわれます

    先日、がん友さんと食事に行きました
    その時に、『家族の中で、がん患者がでたら親戚に言うかどうか』という話になりました
    夫婦でも家族の反応が色々で家族には言っても親戚には言ったり、言わなかったり・・・
    色んな人に言われて困ったなんて話もあったりしました

    ちなみにうちの家では『父・母・弟』しか知らないです
    というか、表向きはそういう事になっています。私の話は誰もしないからです。

    がんって、そんなに悪い病気なのかなって思う
    自分の兄弟にすら言えない病気なんだって・・・思った


    でも、自分の意思で家族には知らせないで手術をするという人もいます

    ある患者さんと話をした時に『家族が、がんになると家庭がうまくいかなくなるのって4割だって』
    イメージとして『家族が病気になったら団結した』とかいいイメージを持つ人もいるけど
    そんなに甘くはないんだ・・・って思った

    先日、入院棟に行った時に、仲のよかったおばあちゃんが亡くなった話を聞きました。
    いつも『うちのお嫁さんはいい人だから』と言ってました。
    でも、お嫁さんは1度もお見舞いに来なかったです。
    やっと、ご飯が食べれるようになって退院したら、お嫁さんは末期がんの姑の面倒は見たくないと
    離婚して家を出て行ってたそうです。
    そして、退院してしばらくしてから、おばあちゃんは亡くなってしまいました。優しい人でした。
    『優しい嘘』だったなって思った。
    『いいお嫁さんよ』って・・・一度も誰かを責めたりしない人でした。そして、よく一緒に笑いました

    入院すると色んな患者さんがいます。孫が入れ替わりやってくるおばあちゃんに、誰も来ない人。
    来ても忙しいからと逃げるように帰っていく人。

    理想はあると思う。でも、現実は違うと思った。

    だからこそ、地域の中で患者をサポートしていかなきゃいけないのかもしれないって思います
    がんになって手術しても、退院したら一人暮らしで頑張ってる人が沢山います。私自身そうです。

    病院の中では患者は守られています。でも、家に帰りたいとやっと帰った地域で患者を支えていかない
    といけないっておもいます。みんな退院しても今までと同じように生活して行きたいんです。
    ほとんどの人が退院後1年もすれば自分の病気や体を受け入れて生活できるようになります。
    でも、それができない間だけでもいいから誰かにサポートして欲しいだけなんです。


    そして高額な医療費の問題もあります

    先日も胆のうがんのお母さんが入院費の請求書を見て驚いて、末期がんなのに無理やり退院したという
    話を聞きました。母子家庭で子供が2人いるからそんな高い治療費は払えないと帰っていったそうです
    彼女のその後はわかりません・・・

    悲しいけれどそういう話は、沢山聞きます

    だんなさんが末期がんになって、緩和ケアに入ったんだけど不安だからと夜中に電話をすると奥さんが
    とても嫌そうに電話にでるという話を聞いたことがあります。
    そして、自分と子供を養うのに必死に働いてもお金は少ししかもらえない、その上、高額な医療費を
    毎月払わなくてはいけない・・・そんな時に優しくできない。

    ものすごく心が痛いと思ったけど、残されると決まった家族に『そんなのひどい』とは言えないと思った
    残された家族は、どんな事があっても、生きていかなきゃいけないんだもの
    誰も非難する権利なんてないんだって思った

    家族のためにと『静かなる自殺』という治療を受けずに亡くなる人も沢山いると言われています
    高額な治療費が家族の負担になるからということでした
    最初は、みんな必死でがんばっています。でも、それが長期になっていくと精神的にも経済的にも
    負担が大きいとつらくなっていくのではないかなと思います

    がんは手術したら、治るものではないです。その後も検査が定期的にあります。
    乳がんのホルモン療法を受けている人は毎月の注射に薬の服用などあります。
    そして、乳房再建手術は保険適応外です。
    手術で無くしてしまった乳房なのに、高額な金額を出さないといけないんです。
    なんか変だと思いませんか?
    また、白血病などでは高額な薬を一生服用する事もあります。それも知っておいて欲しいです。


    がんサポート(高額医療費の壁):http://www.gsic.jp/for/fr_02/index.html
    がんサポート(グリベック):http://www.gsic.jp/medicine/mc_01/04/index.html

      
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  • 2010年09月12日 Posted by すもも at 00:00Comments(2)がんと家族

    よりよいがん医療をうけるために・・・家族の役割

    今日は患者の家族がどうやって治療をうけいれるか。です
    がんという病気は、患者にとっても家族にとってもとても大きな選択をしなくてはいけない病気だと
    思います。できるだけ早く、そしてお互いが納得する治療を受けて欲しいと思います

    今日は、M.D.アンダーソンがんセンターの上野直人医師の言葉です
    上野医師は、日本にチーム医療を広めた医師という事で有名な方です
    HPを参照してください
    http://www.teamoncology.com/index.php4

    チームオンコロジー
    私の病院では今、がんのチーム医療をチームオンコロジー(オンコロジーとは腫瘍学のこと)と言って
    います。単に医師だけが治療にかかわるということではなく、看護師さん、薬剤師さんも含めて、
    さらにはケアマネージャー、ソーシャルワーカーなど、いろいろな職種の人たちが一緒になって医師と
    協力し、患者さんを中心におきながら医療をしようというものです。


    1つめのグループは、患者さんと医療の面で直接関わり、医療における問題を解決する職種で、医師、
    看護師、薬剤師、放射線技師、栄養士などです。こういった人たちは、エビデンス(治療実績の客観的
    根拠)や過去の経験に基づいてよりよい医療を担当するとともに、臨床試験をして、よりよいエビデンスを
    手にしていく役割を担うグループです。

    2つめのグループは、臨床心理士、ソーシャルワーカー、宗教家、音楽・絵画療法士、アロマセラピーと
    いった、患者の精神生活上のニーズをサポートする人たちです。こういった人たちは、必ずしも問題を
    解決することを役割とするわけではありませんが、患者さん、あるいはご家族の主観的な考え方への共感と
    いった精神面に関わり、自己決定を促しQOL(生活の質)を確保するとともに、満足度を高めるための
    サポートを狙いとしています。

    3つめのグループは、1つめのグループ、および2つめのグループを囲むグループで、ご家族、友人、研究者、
    製薬メーカー、メディア、政府といった関係の人々で、直接的に患者さんを治療しているわけでは
    ありませんが、いろいろな形で包括的なサポートをするグループです。

    このように、一人の患者さんには様々な職種の人がかかわるというチームオンコロジーの考え方は、
    今後非常に重要になってくると思います。

    家族の役割
    医療をよりよいものにするのは、医療従事者だけではありません。チームオンコロジーの考え方では、
    患者さんを中心とした医療において家族も間接的に大変重要な役割を担っています。患者さんの
    気持ちを理解して問題点を把握・認識し、そして解決できる問題と解決できない問題を見分けることが
    家族の役割のポイントです。


    (1)患者さんの気持ちを認識する
    一例を挙げれば、患者さんが怒っていたり、あるいは哀しいと思っている気持ちを「怒っているんだね」
    「哀しいのですね」と家族が言えるということが、非常に重要なことなのです。

    ただし、患者さんと同じ気持ちになる必要はありません。相手が泣いてるから、私も泣くという必要は
    ないのです。大切なのは、問題を意識したり、気持ちを認識することです。患者さんと常に気持ちを同じ
    ように保っていたら、家族は燃え尽きてしまうからです。

    仮に、夫にがんが再発して、治療がうまくいっていない。夫は哀しくて涙があふれて、しかも苛立って
    いる。そんな時、妻に「あなたの気持ちはよくわかります。とにかく頑張るしかないのだから、早く
    お医者さんに相談しましょう」と言われれば、夫はきっと「お前なんか、がんじゃないから俺の気持ちは
    わからないのだ。頑張る?いいかげんにしてくれよ」と思うでしょう。

    逆に、「あなたは苛立ってるのね。わかるわよ。今、何考えているの?どう思っているの?」と問いかけて
    みたらどうでしょう。それでけっこう多くの患者さんは、「私の気持ちがわかっている」と受け取ると
    いうわけです。

    (2)問題点を認識する
    もとより、生起してくる問題には解決できるものと解決できないものがあります。たとえば、家族の皆さん
    は薬を出すことはできません。体が痛いと患者さんが苦痛を訴え、苛立っていても、それは解決できない
    ことです。しかし、解決できる問題は沢山あります。車を代わりに運転するとか、薬をとりにいくとか、
    寒いから布団をかぶせてあげるとか、生活に直接関わることはできるはずです。これは家族の皆さんが
    できる比較的簡単なサポートです。

    解決できない問題をどうするかということは課題ですが、問題点を認識するだけでも十分なサポートの
    一環ですから、ご家族の皆さんは、是非それに気づいていただきたいと思います。

    (3)家族自身のケアをする
    患者さんと接する家族の役割としてさらに重要なことは、ご家族が、ご家族自身のケアをすることです。
    もしご家族自身が助けがほしいと思ったら、ほかの人に助けを求めてください。

    また、相手の気持ちに振り回されないでください。言い換えれば、自分の気持ちに正直であることが
    大切です。患者さんが哀しんでいるから、家族も一緒になって哀しむ。あの人が哀しんでいるから私は
    ゴルフに行けない、ショッピングにもいけないというようなことでは困るのです。難しい病気になって、
    患者も家族と一緒に、運命共同体で沈んでいくということではいけません。大切なのはそれぞれが自立して
    いるなかで、相手の気持ちに影響されないでサポートをすることです。それにはご家族自身がしっかり
    した立場で患者さんと接し、家族自身が幸せである必要があります。

    よりよい医療を受けるために
    私は、医療とは患者さんの満足度を高めることであると考えています。満足度を計ることはとても難しいの
    ですが、患者さんがどういう医療を求めているのか、どういう人生観、あるいはバックグラウンドを持ち、
    何をしたいのかをしっかりと聞く必要があります。つまり、何をしてあげれば患者さんが納得できるのかを
    知ることです。がんを縮小させることだけを患者さんは望んでいるわけではないと思うのです。

    満足の中身にはもちろん病気が治る、あるいは病気をコントロールできるようになるといったことはあると
    思います。ただ、必ずしもそれで正解とは言えません。がんを抱えていて、仮にQOLを維持できず、
    また病気を治すこともできなくても、本当に納得できる医療を受けたという満足感を得られるかどうかが
    ポイントです。確かに、実際に満足を計ることは難しいですが、患者さんと上手にコミュニケーション
    して、いかに患者さんに満足してもらうことができるかが、医療従事者、そして家族の大きな仕事であり、
    責任であると思います。

    患者さんを中心としたチームオンコロジーに家族も参加することです。その際、まず焦らないでください。
    がんは慢性病で、がんの治療はマラソンのようなものです。ですから、ゆっくり走っても、走りすぎても
    困るのです。息切れを起こし、無気力感に陥ってしまいます。医療従事者はマラソンのコーチであり、
    家族もマラソンのコーチの一員です。その感覚でがんに取り組むことが大切です。

    また、マラソンのペース配分を間違わないためには、きちんとした情報を取得することが不可欠です。
    特に、悪いことを言われると、人は頭の中が真っ白になってしまうものです。そのためには、ご家族も
    患者さんと一緒に医師の話を聞いてください。本当に良い治療を受けるチャンスは、目の前にころがって
    います。それを獲得するには、患者さん、そしてご家族自身が医療の受け方の取り組みを変えることにある
    と思います。

    がん治療の原則へ続く・・・

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    『人が生き、死ぬという事 19歳の君へ』日野原重明著
    この本の中で、ある話が書いてあります
    「9.11 母と息子の対話」
    ピッツバーグで落ちた飛行機の中に、ある20代のアメリカ人男性が乗っていました
    彼はテロリストに飛行機をハイジャックされた事を知った時に家族に電話をしました
    きっと彼は「もう生きては帰れない」と感じたんだと思います
    そして電話の第1声で、お母さんに「お母さん、ハイジャックされた」といいました
    「お母さん、今までありがとう。お母さん、愛しているよ。今までありがとう、お母さん
    愛しているよ、愛しているよ」彼は、お母さんに感謝の気持ちと愛しているという言葉を言い続けました
    そして、このお母さんは「お母さんもあなたを愛しているよ」と言いました
    でも、もしもこれが日本人だったらどうでしょうか?
    「お母さん、ハイジャックされてしまった。どうしよう」おそらくこうなるだろうと思います
    「静かにしなさい、犯人に聞こえたらどうするの。あなたはきっと帰ってこれるから」

    これを読んで「そんなことない。私のお母さんは違う」と言う人が何人いるでしょうか?
    私の母親もそうでした
    私が不安で仕方がないって言ったら「あんたはなんで前向きに生きれないの」と言われました
    そして、それを「がん友」に泣きながら言いました「お母さんはわかってくれない」って
    でも、その友達みんなに「お母さんが正しい、あんたが間違ってる」と言われました
    その時、私は病院も決まっていなかったし一番不安な時でした
    「誰も自分をわかってくれない・・・」と思いました
    家族であっても、体験者であっても理解してもらえない・・・今でも忘れられない出来事です
    人は不安な時に一人でもいいから、自分を理解してもらってると思えることが大切だと思います  
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  • 2010年08月26日 Posted by すもも at 07:31Comments(0)がんと家族