わたしの3.11

すもも

2013年06月24日 00:00



2度目の入院の時に一緒の部屋になった患者さんの中に東松島市の人がいました
私が『ブルーインパルスの』と言ったら『そうよ』って教えてくれました。

2011年3月11日。

仙台駅で被災した私は、駅近くの避難所として開放されていたホテルのロビーで3日間過ごしました
その間、被災地での情報はほとんど聞き取れないラジオと河北新聞だけでした
でも、情報は限られているし本当に連絡が取りたい被災地の友人とは連絡が取れませんでした
その後一緒に避難所にいた岩手県水沢の人と一緒に岩手県に入って、
私は盛岡の友人のお宅に避難していました。

その間、何度も何度も東松島の友人に連絡をしましたが通じませんでした

岩手に行くと、岩手の被災者の情報がテレビで流されていましたが他の地域の人の情報は全くありませんでした。宮城では宮城県内の情報しかなくて岩手では岩手県内だけ・・・

そして、盛岡も被災地なのであの日は、停電していたので情報は何もありませんでした

がんで入院する時に友達から「同室の人を大切にすること」と教えてもらいました
そしたら、退院後自分がつらくなった時にきっとちからになってもらえるから。と教えてくれました

手術の時に一緒だった人も放射線治療の時に一緒だった人も、ほとんどが宮城県の人たちでした
内地の人もいれば、石巻や塩竃や東松島の人もいました

松島基地が津波で犠牲になったというのは、岩手に着いてから知りました
盛岡の友人と道路地図を見ながら、東松島の友人の住所を探して基地からそう遠くないと知って職場から無事に帰れたんやろか?無事に家族に会えてるんやろか?って思った

そして、絶対に津波でなんて死んでないよねって思った

がんになって、それでも私ら生きてるんやから津波で死んだらあかんでって思った
がん患者ががんで死ぬなら、あきらめもつく。でも、津波はあかんって・・・

それに、ちゃんと私が生きてるのを見届けてもらわないとって思った
その為に、私ら一緒の病室になったんやから・・・って

その後、友人とは無事に連絡がとれました。被災しましたが、元気でした

お互い、最期の時をどこで迎えるかはわかりません

でも、地震でも津波でも死ななかった2人だから案外、図太く長生きしているかもって思ってます

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