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Posted by たまりば運営事務局 at

久しぶりのピアサポーター仲間

久しぶりにピアサポーター仲間とあって話をして感じたのは

1年という長い間、ただただ自分とみんなの「がん体験」を聞けたことの大切さでした

がん治療から5年。

色々な患者さんや家族と話しました

何だか違和感のある人に出会うことがありました

そんな時に「どう思う?」と聞くことができる人たちができたってよかったなって思いました

例えば自分の告知の時に、自分の感情ではなく家族の話ばかりする人。「自分はどう感じたか」を話さない人、話せない人はもしかしたら自分自身の病気を受け入れていないのかな?と感じることがあります

普通であれば「私は死ぬのかな」とか「なんで私が」といった気持ちがあって「家族のことをどうしたらいい」といった感情がでてきます。そもそも「自分が死ぬかもしれない」ことがあるから不安になって「家族をどうすればいいだろう」という気持ちになるような気がします

それは、どちらかだけではなく、どちらも。のように思います

でも、自分の感情ではなく家族だけに目が向いているのはちょっと違和感があります

そういう方は、ちょっと気をつけなくてはいけないのかな?って思ったりします

じぶんの病気ときちんと向き合えていない人がピアとして活動されていたりすると
患者さんの気持ちがわかっているようで、どこかでちぐはぐなことになっていたりします

でも「私は体験者だから、患者さんの気持ちは誰よりもわかっている」という勝手な思い込みを持っていたりします

実際には1年間、延々とピアサポーター仲間と赤裸々な会話をしていた私としては「がんって、本当にみんな違うんだ」と改めて思ったし「自分はこうだから」っていうのは当てはまらないというのだけがわかりました。

ただ、その時に感じたのは「がん体験があったから」ではあるけれど、そもそもその人のそれまでの生き方があって「がん体験」をしたということです。がんが全てではないということだということ。

だから、自分にとって『違和感』のある人は少し気をつけたほうがいいのかな?って思います

「がん体験者」だから、何でもわかりあえる。なんてのはないです

でも、少しでもわかりあえたら嬉しい。くらいの気持ちでいいのかなって思います



  
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  • 2015年01月30日 Posted by すもも at 10:03Comments(0)がんとこころ

    がん体験者のためのカラーセラピー




    coco color 123
     のがん体験者のカラーセラピーです

    ピアサポーター仲間と一緒にカラーセラピーをしました

    最初に「右脳のワーク」として「さかさま文字」と鏡文字を書いてもらいました
    「さかさま文字」はひらがなで「鏡文字」は漢字ですが、ほとんどの方が漢字がわかりやすいといいます
    ひらがなは「左脳」で漢字は「右脳」と言われています
    漢字のへんやつくりは、図形として認識しているので鏡文字にし易いようです

    このワークは、自分の考え方のクセを知ることができます
    「間違えないように」とか「まっ、いいか」と参加してくれた方それぞれの性格がよくでます

    ちなみに私は間違えても一回書いたら、そのままで見直しもしないようなタイプです・・・

    メインのワークでは、128枚のカラーカードを使ってお題にあわせてカードを選んで頂きました

    その時に「がんのイメージは何色?」というお題がでて、みんなで選んでみました

    「色だから話せること」を実感したワークでした


    ココカラー123:http://cococolor123.jimdo.com/


      
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  • 2015年01月26日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)カラーセラピー

    モラルハラスメントって?

    ここのところちょっとした話題になっている「モラルハラスメント」

    テレビで「5分でわかるモラハラ」っていうのをしていました
    直接的に相手を侮辱する言葉を言うのがモラハラって感じでしたが
    本当に相手を馬鹿にする言葉だけが「モラハラ」なのかなって思いました

    ハラスメントは連鎖する。といわれています
    「お局さま」のいる職場では、そのお局様がいなくなってもその後も「新お局様」がでてきます

    それは、お局さまにいじめられた人が自分を正当化するために次の人も同じようにいじめるからです
    そのほとんどが「モラハラ」です

    「あなたのためを思って言っているのよ」と後輩に言っているのは、実は自分自身のため。

    これって学校生活で先生から言われた時に一番、反発した言葉だと思います

    でも、これを社会の中で言われると不思議と拒否できない

    こころのやさしいひとに限って「これだけ私のためを思って言ってくれているんだから」って
    「できないのは、自分のせい」と思ってしまう

    それに、もしそこで「何だかイヤだな」って思って同僚に言っても
    「あんなにあなたのためを思って言ってくれているのに何を言っているの」と反対に批判されます

    そこが「モラハラ」の加害者の思う壺。

    実は「自分が上司に怒られるのがイヤ」なだけだけれど、それを後輩のせいにしているんだけれど
    言葉は好意的に「あなたのためなのよ」ってつけるだけで、いい人みたいに見える

    できないのは、教え方の悪い自分のせいではなく、覚えてくれない後輩のせいということです

    そんな人に限って「あいつのせいで」と飲んでる時に愚痴をこぼしているような気がします

    これが恋人同士で別れる時に使うと「私のことはいいから、あなたは幸せになって」という
    一瞬、いい人?って思う言葉にその人のモラハラが含まれています

    もし、本当にその人が相手の立場にたって言うのであれば「私も幸せになるから、あなたも幸せになってね」かな
    お互い、幸せになりましょうって言われたほうが、別れるにしても気持ちが楽になるということです

    モラハラの加害者は本当は心の中では相手と別れたくない、でも「私はいいから」ということで
    別れた後でも相手が「罪悪感」を抱くように心理的にしむけているということです

    そしてこの被害者は、自分が被害者なのに加害者のような錯覚を起こしてしまいます
    だから、別れようが別れまいが相手に対して「申し訳ない」と感じてしまうということです

    たぶん、こっちのほうが断然、怖いかな

    このモラハラをとても上手に、しかも効果的に使える職業の人たちがいます

    それが「弁護士」と「医者」と「教師」と言われています

    確かに~~~~!!

    お医者さんが「あなたのために」っていうと、患者は「先生!ありがとうございます!」って言いそうだし、先生が「あなたたちの将来を考えているのよ」って言えば「なんていい先生」って思います

    でも、実際には「あなたのために」って言う医師に限って、症例数を気にしていたり、「あなたの将来を考えて」って言っている先生よりも、きちんと自分の話を聞いてくれた先生のほうが大人になって記憶に残っていたりします

    じゃあ「この人は、モラハラ?」って気がつく方法は何か。

    とりあえず「言っていること」と「やっていること」が同じかどうかを検証してみるということです

    医師なら「あなたのために」といいながら、無理な治療をすすめたりその治療を拒否すると怒り出すなんて人は要注意。先生は「あなたたちのことを考えている」と言いながら何もしてくれなかったりするなど客観的に相手をみることです

    そもそも「あなたのために」とかいう人に、本当に考えてくれている人なんていないし、そんな「恩着せがましい人」には気をつけなくてはいけないということです

    それは「これは安いです」とか「これはいいものです」と言って根拠のないもので何かを売りつけようとする人と変わらないからです

    騙そうとする相手に「これは安いですよ」といわれると、いい人は「そっか、安いのか」って思ってしまい、それが「自分にとって安いかどうか」とか考えないし、そもそもそういった相手に対して「いくらで、どう安いのか?」と「せっかくそういってくれているんだから」と、なかなか聞けないということです。

    相手はそれをわかって「安いですよ」とか「いいものですよ」って言っているということです

    これが、相手に対して思い入れがなかったり、怪しい人なら「結構です」「いらないです」っていえるんですが、相手に好意を持っていると相手の言葉を疑っているみたいで聞けない。

    そして、モラハラの加害者は、それをかなりきちんとわかっているということです

    「軒下を貸したら家まで盗られた」

    「軒下を貸してくれ」と言われたら「軒下くらいなら」と思う。もし「貸せない」って言えば「軒下も貸してくれないのか」という。家の持ち主は「軒下ならいいか」と貸す。そうやって、相手に取り入って段々と相手を取り込んでいくらしいです

    今は色々な「ハラスメント」があります

    私はこの「好意的な言葉」のモラハラが一番怖いかなって思いました


    先日のワイドショーで「自由に出かけるのを許している。でも、どこに行くか、いつ帰るのかは聞く。
    だって、家族なんだから当たり前でしょ」と言われていました

    「自由に」だけれど「誰と会うか。どこに行くか。何時に帰るか」を聞くことで、実際には
    「どんな人と会うのか。変な人じゃないか。いかがわしい場所には行かないか。遅くならないか」といった
    「言葉にしていないメッセージ」が含まれているということです

    それを言われた方はその「非言語的メッセージ」を受け取っているから「相手は私を自由にしてくれない」と思う

    そもそも「自由にしていますよ」とわざわざ言っていることが「自由にしていない」ということです
    それに「家族なんだから」ということで、より自分を正当化しているのがわかります

    何も知らない「いい人」が聞いたら「そうだよね、家族だもの。それくらい聞いても良いわよね」と思う

    でも、果たしてそうでしょうか?

    本当に相手を信頼していれば「行ってきます」「今日は寒いから、暖かくして出かけてね」でいいんじゃないかな

    お互い、いい大人なんだから・・・

    人は自分が言っていることほど、できていないからいうと言われています

    「許しています」っていう人は相手を許していないし「別れていいよ」って言う人は「別れたくなんてない」
    でも、言葉で言っているから「こんなに自分はいい人なのに」と自分自身に酔っている人です

    とりあえず、この「モラハラ」は相手を精神的に追い込みます
    どんなに相手から「好意的な言葉」で言われても「逃げるが勝ち」です

    逃げて、逃げて逃げまくって、自分の心を取り戻しましょう!


      
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  • 2015年01月24日 Posted by すもも at 23:51Comments(0)その他

    「幸せ力」をつける、ちょっとした生活術

    お正月になったので年末に借りていた本を読みました

    「幸せ力」をつける、ちょっとした生活術 斉藤茂太著

    ・・・・フランスの哲学者、アランは『幸福論』の中で、「ある人が幸福を求める。するとたちまち彼には幸福を見つけることができないという宣告がなされてしまう」と、人が幸福を探すことのパラドックスを言っている。

    「幸福を世界の中に、自分自身の外に求めるかぎり、何ひとつ幸福の姿をとっているものはないでしょう。要するに、幸福については、論理的に推論したり予見したりすることができたら、それはどういうことかをよく考えて見たまえ、それは今、君にすでに幸福をもっているからだ。期待を抱くこと、それはつまり幸福であるということなのだ」

    私たちは幸せというと、まるで外に「完全なる幸せ」というものがあって、これから見つけ、手に入れなければならないものであるかのように思い込んでいる。そんな幸せなどはないのだ。

    日々、希望を持って生きている、そのこと自体で十分に幸せであるということだ。私たちは明白に期待を持ち日々を生きている。そうである限りは、すでに私たちの幸せを手にしているのではないか。


    去年、ずっと悩んでいることがありました

    自分がどこかで「いい顔依存症」になっている気がして「ほめてもらいたい」「認めてもらいたい」という気持ちに囚われていたように感じました

    でも実際にはそういう関係でなければ、付き合えないのであれば、相手とは本当の意味では付き合っていけないのだということに、心のどこかで気がついていたのに・・・って思いました

    自分の中で無理をして、それでも得たいものって、本当は必要ないものなんじゃないのかなって思った私でした。


      
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  • 2015年01月01日 Posted by すもも at 21:51Comments(0)読んだ本・・・その他