たまりば

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Posted by たまりば運営事務局 at

人を好きになるということ

『人を好きになってみようかな』って思った

その時にふと、別れた旦那のことを思い出した

「なんでだろう・・・」って思うことは沢山あったけれど、一番、自分の記憶に残っている事は
1度も身体の関係を持たなかったことだった
母親に別れたいと言った時に「子供でもいたら違っていたのにね」と言われて
「私たち、1度もそういうことがなかったから」と言った
母親が一瞬、絶句してその後で「付き合っていた時には?」と聞かれた
そういえば・・・と今度は私が絶句した

何もなかったなって思った
でも、いつも彼は「すもものことを大切に思っているから」と言ってくれていたから、気にすることがなかった

今考えても、なぜ彼は私と結婚したのだろうと思うけれど、そういう私もはっきりとした理由は思い出せない

そんな私にとって『人を好きになることって何?』と思った

病気のせいにして恋愛しないとか結婚しないというのは、ちょっと違う気がする

そして、また人を好きになってみようと思ったら、もう1度あの場所に戻ってみようと思った
彼の後に付き合った人ではなく、別れた旦那との関係を考えてみないと先には進めないって思った

その時に本物の旦那には会えないので、私が「旦那に似ているから」という理由で具合が悪くなった飲み友達と会って話してみた。もし本物の旦那と会ったとしても彼が私に本心をいうかどうかもわからないし、私も彼を信用するかわからないなって思った。それよりは、似ているけれど違う人のほうがいいんだと思う。

その時に彼に「私と寝れる?」って聞いてみた

笑いながら「できないな」と言われた。でも、それは私が好きとか嫌いではなく「普通の人でいたいから」という理由でした。本来の自分なら、寝ることに抵抗も無いけど「普通の人」の自分は奥さんのことを考えたら寝ないなと言った。そして私が「あなた、私の事好きでしょ?」と聞いたら「そうだね」と言っていた
だから、もしも自分が独身だったら、きっと付き合ってただろうなって思う
そしたら、一緒になってるかもね。と言っていた

似ているからと言っても全く違う価値観を持っている彼との結婚生活なら、もっと違う人生があったのかな?とも思ったけれど、まあそれも「仮定の話」だから。
でも、最後に彼が「もしも、寝ることがあったら何でもしてあげるよ」と笑いながら言ってくれた
2人して、お腹が痛くなるくらいに笑って「言ってよかった」「言われてよかった」と言ってました
そしてお互いに「ありがとう」って言ってた

友達にその事を言ったら大笑いされて「すももさんらしい考え方だね」と言われた
普通、いくら旦那に似ているからってそんなの聞かないでしょ~~って
そっか~~~でも、それが「私らしい」なんだと思った

彼にも「なんで俺?」と聞かれて「もちろん、旦那に似ているのが1番だけど、でも本当は似ていないし、違うというのもわかってる。それに、あなたが私を好きだというのもわかっているから、何があってもあなたは私を傷つけないから」と言った「言う相手を、よくわかってるやん」と言って「ありがとう」と言ってくれた

彼と話してみて感じたのは、本当は旦那に聞いてみたかったんだと思う・・・
「なぜ何もしてくれなかったの?」「私の事、好きだったの?」って

そしてきっと私は、彼は私とは寝ないとちゃんとわかっていたんだと思う

彼と帰り道に手を繋いでみようと言ってみた
自然に手を出して「いいよ」と握ってくれたけど、やっぱり「やめとく」と言って引っ込めた
なんだか「違うかな」って思った
私が繋ぎたかった手は、この手じゃない気がした

人を好きになることは、嬉しくて楽しくて自分がいる世界が何だか少しだけ明るく見える
そして、好きな人を見るだけで幸せな気持ちになれるし、1分でも1秒でも長く一緒にいたいと思う

でも、それと同じだけ何かにこだわってしまう自分がいる
一緒にいたいと思うことや価値観や好きなもの。色んなことをこだわってしまう
「こだわることにこだわならない生き方」をしようと決めた私には、人を好きになることは何だか少し不安な気持ちがする

2度目の放射線治療の入院を終える最後の診察の時に、放射線科医に「先生、私エッチできる?」と聞いてみた。先生に「それって婦人科の女性の先生に聞いてみたほうがいいんじゃない?」と言われて、そうだなって思った。でも、私の場合診察で「肛門見せて」といわれるわ、もう何も隠したり照れたりするところはないやん・・・と思った(「肛門見せて」の理由は、照射の副作用が強く出ている私は、肛門が焼けてしまうと人工肛門にしないといけないと言われていたので、診察があった。)その時に「卵巣が1つ残っているので、大丈夫だと思うけれど照射で固くなっているのでどうなるかわからないけど、潤滑ゼリーを処方箋で出すこともできるし、市販のもあるよ」と教えてくれました
あと放射線治療だけでなく、手術でどうなのかはわからないのもあるし・・・

でも、今のところは試していないので実際のところどうなのかわからないというのが本当のところです

もし次に誰かと寝る時は優しい人がいいなって思う
潤滑ゼリーを使わなくてはいけない事や、お腹の傷のこともそうだけど、できなくってもそれを責める相手とはしたくないなって・・・でも、それをどう言えばいいのかな?と思う。そして「それでもいいよ」と言って受け入れてくれる人っているのかな?って思う

「じゃあ、いっそのことしなければいいんじゃない」と言われそうだけど、なんかそれもちょっと寂しいかな。それが全てではないけれど、それもあって欲しいかな

20代には20代の愛し方があっていいだろうし、今の私には今の私らしい愛し方があってもいいなと思う。そして、ちょっとくらいお腹がでてても、それが可愛いと思ってしまうような人がいいなって思った
  
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  • 2012年03月31日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんとこころ

    いい日旅立ち

    雪解け間近の北の空に向い
    過ぎ去りし日々の夢を叫ぶ時
    帰らぬ人達熱い胸をよぎる
    せめて今日から一人きり旅に出る

    あヽ日本のどこかに
    私を待ってる人がいる
    いい日旅立ち夕焼けをさがしに
    母の背中で聞いた歌を道連れに・・・

    岬のはずれに少年は魚釣り
    青いすすきの小径を帰るのか
    私は今から想い出を創るため
    砂に枯木で書くつもり“さよなら”と

    あヽ日本のどこかに
    私を待ってる人がいる
    いい日旅立ち羊雲をさがしに
    父が教えてくれた歌を道連れに・・・

    あヽ日本のどこかに
    私を待っている人がいる
    いい日旅立ち幸福をさがしに
    子供の頃に歌った歌を道連れに・・・

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    今日で12月からお世話になっていた会社が最後になります

    部長が「明石海峡大橋を架けた」という話を聞いて決めたという私ですが
    短い間だったけど「一緒に働けてよかったな」って思っています

    「いい日旅立ち」って山口百恵さんの曲の中でも好きだったけれど
    今回、よく読んでみると少し悲しい歌詞だったんだなって思いました  
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  • 2012年03月30日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)その他

    痛み

    少し前から左足の付け根が痛いicon11

    排尿した時に奥のほうにも、なんとも言えない痛みがある・・・
    術後すぐに急性リンパ浮腫になった時は、右足だったのに退院後は左足に移動した浮腫み・・・
    不思議なことに、私が聞いたリンパ浮腫の患者さんは左足ばかりだった
    そして痛みと痺れがあるっていうのも同じ

    そして、3日前から左足の膝の少し上側に「ぐりぐり」としたものがあって、そこが触ると痛い
    ちょっと「ガングリオン」に似ているかな?と思った

    それから寒いせいか、今週はずっとお腹の調子が悪いし、そのせいなのか手術の傷跡が「ピリピリ」している
    この「ピリピリ」ってなんか絶妙に合ってる気がする言葉だなって思う
    そして、このところ習慣化している朝4時の下痢・・・う~~ん、なんだろう・・・

    そして、やっぱり痛いってなんだか嫌だな・・・と思っている私。

    告知3年目が来ても、やっぱり完全に元には戻らないのだと思った

    『これからは自分の身体の声を聞いてあげてください』退院する時に、主治医に言われた言葉です

    そうだなって思う。どんなに文句言っても何をしても、やっぱり自分の体なんだから大事にしてあげよう。
    ちゃんと愛してあげよう。と思っている今日この頃でした  
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  • 2012年03月29日 Posted by すもも at 00:00Comments(2)がん

    上を向いて歩こう



    上を向いて歩こう
    涙がこぼれないように
    思い出す春の日
    一人ぼっちの夜

    上を向いて歩こう
    にじんだ星を数えて
    思い出す夏の日
    一人ぼっちの夜

    幸せは雲の上に
    幸せは空の上に

    上を向いて歩こう
    涙がこぼれないように
    泣きながら歩く
    一人ぼっちの夜

    思い出す秋の日
    一人ぼっちの夜

    悲しみは星の影に
    悲しみは月の影に
    上を向いて歩こう
    涙がこぼれないように
    泣きながら歩く
    一人ぼっちの夜
    一人ぼっちの夜

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    東北の震災の2週間後にこの曲が石巻のラジオ局から流されたそうです
    がれきをよけながら歩かなくてはいけないから、ずっと下を向いて歩いていた人に
    『上を向いて歩こう』と、これからは、前を向いて歩いて欲しいと伝えたかったそうです

    今日で私は『告知3年目』になりました

    3年前の今日、小さな町の産婦人科から、がん拠点病院のK大学病院へ行くように言われました
    あれから色んな事があって、今でも仙台に通っています

    告知から3年目。

    どんなことがあっても、ちゃんと『上を向いて歩こう』と思っています

    告知:http://miyabimari.tamaliver.jp/e132707.html  
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  • 2012年03月28日 Posted by すもも at 00:00Comments(2)がんとこころ

    元祖『方言女子』

    入院している時に、『42才・52才・62才・72才・82才』の5人でよく病棟を歩いていました

    「うまいこと10歳違いが集まったもんやわ~~」なんていいながら、いろんな話をしました

    東京から入院したと聞いて『綺麗に話しするのに、恥ずかしいわ』と言っていた人たちにとって
    私の関西弁は、かなりの驚きだったようです・・・

    なんで関西弁!!みたいな感じだったけれど、病棟の中で『関西弁を話す面白い子がいる』と、うわさになっていたというのを2度目の入院で知りました
    これが標準語なら、誰も話しかけてくれなかった??かも知れないけれど、関西弁が珍しかったのか、よく話しかけてもらいました

    その時に、おばあちゃんたちが『~~だっちゃ』って言うのを聞いて『可愛い~~』って言うと『そんなの言われたことない』と言うから『いや、絶対、可愛いって』と言っていた私。(考えたら、みんながそういうから可愛いとは言われないんだけど・・・)

    それから、おばあちゃんたちの『方言講座』が始まりました
    山形・宮城(県南・県北で違うらしい)の言い回しの違いなどを、元祖『方言女子』の、おばあちゃんたちは生き生きとして教えてくれました
    詳しい事は忘れたけれど「ご飯食べる」が「ままけ」で「あんだ」=「あなた」、「おしょすい」=「恥ずかしい」ってノートに書いてますface02

    その中で女学生の時の学徒動員の事なども教えてくれました

    色んな話をしてくれたなって思う。
    ほとんど(半分くらい?)、わからなかったけど、方言が持つ音の響きがいいなって思った
    イントネーションって、ふっとその場所に連れて行ってくれる気がします
    宮城の友達と話すと『~~だっちゃ』とは言わないけど、ほんわかした空気感を感じます
    方言には、その土地の風土や人柄を感じる気がします

    何かで『標準語は書き言葉』で『方言は話し言葉』というのを聞いたことがあります
    だから、感情を表現するのには、方言が一番伝わりやすいと言います

    52歳の人は、その後はわかりません
    62歳の人は、その後子宮が下がるので手術でネットをつけてもらったそうです
    72歳の人はその後、地元で亡くなりました
    82歳のおばあちゃんは、局所再発して手術後に、ストーマになりました

    みんな『色んな人生だな』って思います

    つらいはずの入院だったけれど、振り返れば楽しい時間だったなって思ってます  
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  • 2012年03月27日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)その他

    70~74歳で患者数最多=5大がんで半数超占める

    70~74歳で患者数最多=5大がんで半数超占める―国立センター
    時事通信 3月21日(水)12時37分配信

     国立がん研究センターは21日、全国のがん診療連携拠点病院370施設で2009年にがんと診断された患者約48万人のデータを公表した。年齢区分別で患者数が最も多かったのは70~74歳で、約7万6000人に上った。
     
    集計結果によると、がんの部位で最も多かったのは大腸で13.5%。胃12.4%、肺11.4%の順で続く。胃、大腸、肝臓、肺、乳房の5大がんが51.7%と半数を超えた。

     患者住所と病院所在地の関係を見ると、全体では住所のある都道府県内の病院で診断された患者が90.3%に上った。特に面積の大きい北海道は99.1%とほとんどの患者が道内の病院で診断。一方、最も低かった埼玉では66.9%にとどまり、東京など県外の病院へ足を運ぶ患者が少なくないことがうかがえた。

     年齢区分では、70~74歳に続いて65~69歳、75~79歳の順に患者数が多かった。20歳未満の患者は2826人だった。都道府県別の男女比で見ると、46都道府県で男性の方が多かったが、沖縄だけは女性の方が多かった。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    全国の拠点病院で、がん登録が始まって、やっときちんとした数字がでてきました

    がん=怖い、死ぬなどといったマイナスイメージや「可哀想に」という同情という名の差別ではなく
    客観的にがんを見て欲しいと思います

    子供であっても若者でも、がんにはなるんです

    こうやって「がん患者」やがんという病気に対する正しい知識が伝わっていけばいいなと思っています

    「がん診療連携拠点病院院内がん登録2009年全国集計報告書」「全国がん罹患モニタリング集計2007年(MCIJ2007)」の発行について、詳しい記事は、こちらから:http://www.ncc.go.jp/jp/  
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  • 2012年03月26日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)ニュース・・・がん

    身辺整理

    がんと告知をされた時に、すぐに考えた事が『大丈夫』と『私、いつまで生きられるんやろか?』でした

    前向きに考えている自分と、どこかで最悪な事も考えている私でした

    その時に「やらなきゃいけない事メモ」を作って、その中に身辺整理がありました

    でも、その事を友達に「あんた、荷物とか片付けてないか?」と言われて「なんでわかったん!」と聞いたら「私も、子どもの幼稚園の準備とかしてたからわかるわ」と言って「でもな、絶対に大丈夫やから、そんなんせんでええ」と言ってくれました

    それから同室だった人が末期がんで「家に荷物を片付けに帰りたい」というのを聞きました

    みんな同じ事を考えるんやな・・・って思った

    でも、告知から3年目が来る今の私が思うのは「片付けんでもええんと違うやろか」という事でした

    それがお嫁さんや他人が片付けるなら話は別だけれど、自分の身内や私のように母親なら「文句を言いながらでも思い出してくれるほうがええかも」って思った
    思い出の品も何も無い部屋よりも「あの子、なんでこんなもん集めてたんやろ!!」って家族で文句を言いながら片付けて欲しいかなって思った
    そしたら、きっと私が知らない私を思い出してもくれるんじゃないかな?って思う

    「そういえば、あの子、子どもの時にもこんなもん集めてたわ!」とか「こんなにようさん集めて何するつもりやったんよ!」とかグチグチ言って欲しいなって思った

    そしたら身辺整理って、いい事ばっかりやないんと違うやろかって思った

    ただ「遺品を整理する作業が一番つらかった」というのを遺族の方に聞いたこともあります
    いろんな思い出が浮かんできて、しばらくは手に取ることもできなかった・・・って

    でも、それを片付けることで亡くなった人を受け入れてあげて欲しいと思います
    そして、思い出してあげて欲しい・・・

    津波で家族も家も何もかもを失くした人の気持ちを考えると、自分で片付けてあげれるというのもいいのかなって思った
    思い出したくても写真1枚見つからない遺族もいると思います

    なんでもかんでも捨ててしまうのって、どうなんだろう?って思った私でした  
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  • 2012年03月25日 Posted by すもも at 00:00Comments(2)がんとこころ

    『雨のち晴れ』・・・小畑和馬

    大原薬品がHPで小児白血病のコラム連載開始

    大原薬品工業は、2月21日、ホームページで小児白血病と歩んできた一人の少年の物語『雨のち晴れ』の連載を開始しました。

    このスペシャルサイトは、青春真っ只中の一人の少年が、小児白血病を発症し完治するまでの経緯をコラムにしたもので、筆者はNPO法人SUCCESS小児がん治療開発サポート運営委員の小畑和馬氏(30歳)です。

    第1回:『Story1 病気の発覚:1体調に異変-そして入院』
    第2回:『来年こそは。』
    第3回:『生きていくということ』


    が掲載されており、隔月に掲載。Story2は4月中旬に掲載の予定です。

    大原薬品では「今現在、闘病中の患者様・ご家族様に、この病気に立ち向かった1人の少年の気持ち・思いが、皆様の勇気と希望に繋がればと願っております」としています。

    大原薬品HP:http://www.ohara-ch.co.jp/

    小児白血病と歩んできた一人の少年の物語『雨のち晴れ』
    http://www.ohara-ch.co.jp/column/index.html

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    STAND UP!! ~がん患者には夢がある~

    若年性がんと向き合うことは辛く大変な経験ではありますが、それ以上に得ることが大きい経験だと思っています。たからこそ若年性がんと向き合った人にしかわからないこと、できないことがあると思いました。そういった経験を最大限に生かし、若年性がん患者が必要としている情報を広め、経験者として若年性がん患者の相談支援等を行い、若年性がん患者の方が少しでも前向きに闘病を乗り越えられるようにすることを活動の目的としています。そして活動を通じて、若年性がん患者の輪を広げ、若年性がん患者が一人で孤独に闘病することのないような環境を作っていくことを目標としています!

    35歳までにがんになった若年性がん患者の会であり、かつ若年性がん患者を支援する団体
    STAND UP!!:http://ameblo.jp/stand-up-dreams/  
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  • 2012年03月24日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)お知らせ

    嫌いな人をなくす方法

    先日「人間関係心理士講座」の第1回目を受けてきました

    人間関係心理士という名前らしく、色々な心理学の基礎+よりよい人間関係をどう築くか。という内容です

    その時に一緒に受けていた人から「会社に苦手な人がいるんだけれど、どうすればいいか?」という質問がでました。先生から

    ・相手を嫌いになるということ(すぐにマイナス面を考える)を、どうするか。というのを教えてもらいました

    1:その癖の存在を知る
       ↓ ・自分の考え方の癖を知る

    2:損得表を作る
       ↓ ・得なところは? ・損なところは? ・相対的にみたら?

    3:よいイメージを作る
       ↓ ・嫌いな人や嫌いなものを、自分が好きな場所に連れて行く

    4:外在化(内在化)外在化:外に出すエネルギー、内在化:内に向かうエネルギー
       ↓ ・名前をつける(あだ名) ・客観視  ・共有  ・対策
       
    5:性格
       ↓ ・嫌い→落ちこむという方程式ではなく、笑う→楽しいという風に考えてみる
          (先にいい出来事を考えるようにする)

    6:逆説
       ↓ ・無理やり相手の事を考えて見る

    7:ストップ
         ・相手のことを考えると別のことをするという習慣をつける

    これを聞いていて「面白い~~」と思ったのが、ずっと私が書いていた「若旦那」との関係と同じだと思いました

    最初に「ちょっと苦手かも・・・」と思ったけれど、自分の得意な「あだ名」をつける事で、若旦那話を友達にしてみる。すると、友達が面白がって「それなら、若旦那は呉服屋の2代目やな」とか「着物の袖口を持って走ってくるんやろ」とか、いろんな飛躍をしていきました。(実際の人は、誰も知りません)

    最終的には、舞台は江戸時代で東男の呉服屋の若旦那に見受けしてもらった京女の私は、なかなか意思の疎通ができなくて(言葉が通じなくて)「こんなに私が尽くしてるのに、なんで若旦那は私の気持ちをわかってくれへんのやろ・・・」という。危ない妄想になって、最後には友達と大笑いでした(この場合、私は必ず関西弁で話す)

    でも、これって実は心理学的にも正しい方法らしくて先生にも受けてました

    同じ時代ではなく、江戸時代などの架空の時間や場所に相手も自分も連れて行くことで(宇宙でもいいらしい)、相手も自分も客観視できるということと、人の悪口なら「そんなの聞きたくない」という人もあだ名がついていて時代が変われば、楽しんで話を聞いてくれる(共有)というメリットもある

    その上で、自分と相手の関係を客観的に損得表で考えてみる

    これもやったわ~~~と思った

    そしたら「若旦那、ええ人やったんかも!!」と私の場合は、意外な事実(失礼)が浮上!なんて結果が待ってました

    それでも駄目な場合は、10分置きくらいに無理やり相手の事を考えて見る(逆説
    これができるようになると、反対に考えないで置こうと思うこともできるらしいです
    それが駄目なら、席を立つ・お菓子を食べるなどをして考えないようにするそうです(ストップ

    心理学って難しいように思うけれど、自分で勝手に実行している場合もあるんやなって思った

    それから私は、積極的に若旦那と話してみることにしてみました
    その時に、会社の中ではなく飲み会の席など公的な場所ではないところで話してみると案外違う1面が見れると思います

    「嫌だ、嫌だ」と思っているうちは、相手の本当の部分も見えてないのだと思ったし、そんな私を相手が好きだと思う訳ないよなとも思いました。結局は、相手は自分の鏡だと思うし・・・

    いつも先生には「すももさんは、典型的なタイプ7の楽天家タイプですよね」と言われています

    これからも自分なりの解決方法を見つけていきたいなって思っています
    心理学はそのための手段なのかな?って思っています

    それから・・・・・面白いものを見つけました

    『どうしてわかってくれないの?』という気持ちが出てきた時には、1度相手は「わからない」か「わかりたくない」かを考えてみる。そして『そうだとすれば、わかってもらうにはどうすればいいか』を再検討してみる

    それから『どうして』『なんで』という言葉には、You are not OKというのを含んでいるということです

    う~~~ん、わかるかも。。。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    タイプ7(エニアグラム):http://www.enneagram.ne.jp/

    タイプ7:熱中する人
    このタイプの人は、人生を楽しく、明るく過ごしたいという人です。熱中した陶酔感を大切にします。色々のことをやり、人生には多様性があって欲しいと望んでいます。
    聡明で、明るく、ざっくばらんで、くつろいだ感じを好み、未来について計画したり、夢を追うのが大好きです。反面で、苦しみや辛さを出来る限り回避しようとします。深刻な場面、嫌なことも何となく楽しいものにしてしまいます。何時も明るく陽気に振舞います。
    自分を縛り付けることが嫌いで、人生を楽しみたく、楽しい人生を他人と共有したいと望んでいます。その反面、やや落ち着きに欠けるところがあります。
    このようなことから私たちは「熱中する人」(THE ENTHUSIAST)と呼びます。
      
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  • 2012年03月23日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)ポジティブ心理学

    肺がんを2週間で消す方法

    がん細胞が2週間でほぼ消滅

    肺がん治療は、1980年代以降に分子生物学が発達したことで、がん細胞の増殖や転移に関係するがんに関連する遺伝子の解明が進んだ。しかし、毎年7万人近くが肺がんで命を失っているため、日本人のがん死亡原因の第1位は肺がん。
    肺がんには、小細胞がん、腺がん、扁平上皮がん、大細胞がんの4種類があるのだが、 2000年代までは、肺がんは、小細胞がん、もしくは非小細胞がんのわずか2分類で肺がん治療法が決されていた。

    しかも、旧来の抗がん剤はがん細胞だけでなく正常細胞も攻撃してしまうために、
    治療効果よりも副作用が強い場合が多く、がん細胞に対する効果が不十分な治療が多かったのだ。
    その後に新開発された分子標的薬は、がん細胞で活性化している特定の分子だけをターゲットにするため、 がん細胞だけに特異的に作用し、効果が高く副作用が少ないのが特徴とされた。 そして、肺がん治療にも分子標的薬が開発された。 それが肺がん分子標的薬、ゲフィチニブ(2002年:商品名イレッサ)と、エルロチニブ(2007年:商品名タルセバ)だ。それぞれ保険承認を受けている。しかし、当初の肺がん分子標的薬は、副作用が酷く、医療訴訟にまで発展してしまったのだ。

    その後、2004年に、イレッサを初めとする分子標的薬の向き不向きに関して、遺伝子内に指標があることが確定された。

    日本では肺がんの70%が腺がん だが、この半数近くにEGFR遺伝子の変異が認められるのだ。イレッサやタルセバはEGFR(上皮成長因子受容体)という遺伝子の変異に対する薬だが、 EGFR遺伝子突然変異がある肺がん患者に対して、分子標的薬が劇的な効果があることが判明した。 著効例では、イレッサ投与後の2週間でがん細胞がほぼ消滅した例もある。

    反対に、EGFR(上皮成長因子受容体)が認められない場合には、効果効能が期待薄で、もしろ激しい副作用が発現する可能性が高いことから、 分子標的薬の肺がん治療前には遺伝子検査が強く推奨されるようになった。

    イレッサ(アストラゼネカ)は日本を含むアジア人、女性、非喫煙者の肺がん、特に腺がんに著効が期待できる、効果が高い特効薬なのだ。

    癌治療の最新情報:http://blog.kougan.info/

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    当然ですが、薬には良い面だけではありません
    それは、イレッサでも同じことです

    なんでもそうですが薬には大なり小なり『副作用』があります

    また今、なぜイレッサ?と思いました

    イレッサは「夢の新薬」と言われたけれど、1錠8000円(金額は、以前なので今は不明です)という高額な薬ということろもあって全ての患者さんが使える訳ではないという面があったり、また新薬ということで医師の説明不足という問題や、副作用などで亡くなった患者さんの遺族が起こした『イレッサ訴訟』というものもありました

    でも治る可能性があるものを使いたいという患者や家族の気持ちもわかります

    また、ドラッグラグ問題などを考えても、副作用があったからと言って全ての薬を禁止しろとは言えないと思います

    そして全ての患者さんに有効という薬はありません

    体も、がんも人それぞれです

    良い面だけを見て判断するのではなく悪い面もきちんとわかってから医師と相談して使用してください

    イレッサについては、こちらから:http://www.iressa.jp/select.asp

    http://www.gsic.jp/cancer/cc_20/irs/01/index.html  
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  • 2012年03月22日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)ニュース・・・がん

    血のつながり

    実家からお米が送られてきました

    うちの母親の実家が農家なので、お米は家から送ってもらっています
    「まあ、たまには電話してみるか。。。」と思って電話してみました

    母との確執はここでも色々と書いていますが、病気をしてからしばらく経ってから
    何となくですが受け入れることが出来てきました

    そんな母と、私の会話の中心は「韓国ドラマ」です

    母は3年くらい前には「私は絶対に、はまらない!」と断言していたクセに今では、かなりどっぷりでとうとう「5月に友達と韓国旅行に行ってくるね~~」と言っていました

    まあ、それも元気なうちやし「ええやん」と言っていた
    私にも「パスポート作ったから一緒に旅行に行こう」って言って「一生に1回くらいハワイに行きたい!」なんて言い出すし・・・ただ、リンパ浮腫がつらい私としては「もうちょっと近いところにして」と言っていました。

    ただ母が元気なうちに1回くらい旅行に行ってもいいかな。なんて思っています

    電話の時に、従姉妹の姉ちゃんの話になった
    母が旅行に行く相手を探していて、自分の姉に聞いてみたけれど「今回はパス」と言われて
    それなら、姪っこに聞いてみようと言って姉に「連絡先を教えて」と聞いたらしい

    その時に叔母に「あの子の事は、かまわんといて」と言われて「すももにきついことを言われたみたいや」と言われたらしい

    母に「あんた、何を言うたんや」と聞かれて、そもそも従姉妹の姉ちゃんと話をしたのも、かれこれ2年以上前の話で、しかも姉ちゃんがあまりにもきついことを言うので「私も体調が悪いから、また元気になったらメールします」とメールで送ったのが最後なので、何がどうなってそんな話になったんやろ??と思った

    ただ、姉ちゃんの不調は母も前から気がついていたので「まあ、あの子なんか変やったから」といっていたので「あんただけが悪いとは思えへんけどな・・・」と言っていた

    姉ちゃんが私に言っていたのは、退院後すぐの私に「あんたには人の生き死には、わからへんのや。でも、私にはわかる」とかよくわからないことばかりでした
    がん患者の私に、しかも同室の人が亡くなったりしているのを見ている私に、なんでそんなひどい事が言えるんやろ・・・と悲しくなっていた(姉ちゃんは手術後の私の世話をしてくれるために仙台まで来てくれていたので、私の状態は誰よりも知ってくれているはず)あとは、末期がんの人に貰った仏像をどうすればいいのかという話を何度も何度も聞いてきたりするけれど、こちらの話はまるで聞いていないし、一方的に話し続けるなど違和感のある事が沢山あった

    叔母にも「なんかおかしいで」と言ったのですが、その時には「気にしなくてもいいから」と言っていた

    でも、それからもう2年以上も経っての「すもものせい」は、ないよな・・・って思った

    ただ、その時に思ったのは「きっと、姉ちゃんと最後にちゃんと話をしたのが私だったんだろうな」ということでした。1人暮らしで毎日毎日、家にいて誰とも接することも無くて働くこともなく、買い物に行くのも夜のコンビニだけという違和感のある生活を送っていた姉ちゃんと外の世界を結んでいたのは、その時、退院したばかりの私だけでした
    今なら、その危険性もわかるけれど、その時は自分の体調の悪さのほうが大きかったから姉ちゃんのつらさまでは気がついてあげれなかったのだと思った
    たった1つ、外とのつながりだった私が電話やメールをしなくなって姉ちゃんと外の世界を繋げるものは無くなってしまったのかもしれないなと思った

    母が『友だちなら切ることもできるけど、血のつながりがあるからそれもできひんし、余計にあんたが憎いんとちがうやろか?』と言っていた

    姉ちゃんからうちの母に電話がかかってきた時に「ずっとあんたの事を心配してくれるんやけど私の話も聞かへんし、なんやけったいやったんよな」といって「そんなに、あの子が心配なんやったら会いに行ったってくれへんか?」と言ったらしい。でも、その母の問いかけにもまともに答えることもなかったそうです

    それからの姉ちゃんがどうなっているのか、よくわからないです

    もう1人の従姉妹に聞いても「そっとしといて」しか言わないし・・・
    従姉妹は私が言われていた内容も知っていて「あんたの体調がわるなるから、もう連絡せんとき」と言ってくれた人なので「あの子の事は、あんたのせいやないから、気にせんでええよ」と言ってくれました

    ただ、そういう人と話した経験がある私としては家族が「本当に危険かも」と思うくらいになるまでって、結構時間が経ってから気がつくという事が多いそうです

    家族だからこそ「何とかなる」「大丈夫」という気持ちが強いのだと思います


    今回のことで、母が私に言ってくれたのは、昔からいつもいつも母が私に言う言葉があって

    『あんたの好きにしたらええ』でした

    でも、その言葉には本当は、続きがあって

    『あんたの好きにしたらええ。でも、困った時には何とかしちゃるから』でした

    初めて言われた言葉でした

    いつもいつも突き放すように『あんたの好きにしたらええ』としか言わない母親だったから
    「なんて冷たい人やろか」と思っていた

    事実、自分のできることは自分でしい。っていう人でもあったから、私も今までほとんど頼ることがなかったし考えたら、それはそれで今の私の強さにもなっているのかなと思った

    良くも悪くも『血のつながり』って、やっぱり強いなって思った出来事でした
      
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  • 2012年03月21日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)がんと家族

    <東日本大震災>自衛隊の活動97%が評価



    内閣府が10日まとめた「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」で、東日本大震災の被災地救援に10万人態勢で臨んだ自衛隊の活動を「大いに評価する」との答えが79.8%に上り、「ある程度評価する」と合わせて97.7%が評価した。米軍による「トモダチ作戦」も79.2%が「成果を上げた」と答えた。

     自衛隊の印象については「良い」(「どちらかといえば良い」を含む)と答えた人は91.7%に上り、前回09年調査から10.8ポイント増えて1969年の調査開始以来最高となった。日米安全保障条約が「役立っている」との回答も4.8ポイント増の81.2%と過去最高を更新。震災活動の評価が自衛隊と日米同盟のイメージ向上につながったとみられる。

     調査は1月に全国の成人男女3000人を対象に実施し、1893人(回収率63.1%)が答えた。【新垣和也】

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120310-00000065-mai-pol

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    神戸の震災のあと、瓦礫の処理をしていたボランティアの人から一緒に作業していた自衛隊員に一般の人が石を投げていたというのを聞きました

    あれから、色々な場所で自衛隊員やレスキュー隊の活躍が日本国内や海外でも伝えられるようになったし、この震災で、一般の人の意識も変わったのかなと思いました

    みんなが入れないような災害後すぐの現場に、一番最初に入ってくれるのが自衛隊員です

    神戸の時も、仙台の時にも『緊急物資搬送中』と書かれた沢山の自衛隊の車両やヘリを見ました

    今回の震災では一部、ご遺体を土葬にしなくてはいけなかったけれど、神戸の時には他の地域の火葬場が受け入れていました。その搬送をしていたのも自衛隊でした
    物資だけでなく、一番つらい作業も誠意を持って対応してくれていました

    今回、被災されたり身内を亡くしたりした人がみんな自衛隊員に『感謝している』と言っていたのを聞いて「よかった」と思いました

    姫路市民なら皆が知っていることですが、年末になると陸上自衛隊の方々がお城の石垣を掃除してくれます
    普通の人には登れないので、いい訓練になるし綺麗になるし。
    大きな活動もあるけれど、こんな事もやってくれていますicon_maro08

    これからも頑張ってください
      
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  • 2012年03月20日 Posted by すもも at 00:00Comments(2)東日本大震災

    気質と性格



    どうやら私は「明るい人」だと思われているようです
    確かに自分自身で選んだ性格なので、正しいと思います

    ただ、気質の部分ではどうなのだろう?と思っています

    小学3年生の時に、家庭訪問で先生が「すももさんは、クラスでほとんど誰とも話していないようなので、仲のいいお友達はいますか?」と聞いてくれて、お母さんが「Mちゃん」と言うと、先生が「来年のクラス替えでMちゃんと一緒にしてあげます」と言ってくれたそうです。
    お母さんからそれを聞いた私はとっても嬉しかった記憶があります

    そして小学4年生になった私は、毎日毎日、1日中学校でも行きも帰りでもMちゃんと一緒にいました
    ほとんどがMちゃんと過ごしていた私は、ある日、Mちゃんが他の子に「すももちゃんが、ずっと一緒だからしんどい」と話しているのを聞きました。ずっとずっと「お友達でいてくれる」と思っていたし、自分はMちゃんが好きだったから小学4年生の私は悲しくて悲しくて仕方がなかった

    でも、5年生になる時に「これからは、みんなと仲良くなれるようになろう」って思った

    それからの私は毎日が地獄のような苦しみでした

    ちょっとクラスメートと話をするだけで、緊張して泣き出してしまうし、授業中に発表するなんてもってのほかだった私が、毎日毎日、一生懸命に話をしていました

    それも泣きながら・・・

    今考えたら、よくクラスメートが受け入れてくれたなって思います
    きっと、すぐに泣き出してしまう私は不思議だった気がします

    ただ、それまでマンモス校だった小学校から新設された2クラスしかない小さな学校に異動する事になったりして自分のことをあまり知らなかった人たちと一緒になったことも幸いだったのかもと思います

    そして、2年間同じクラスメートで泣き通していた私は中学生になった時に、また別れた元の学校のクラスメートと一緒になりました。その時に3年生の時に同じクラスだったHちゃんと一緒になりました
    Hちゃんが私を見て「もしかして、すももちゃん?本当に、あのすももちゃんなの?」と言いました
    明るくなったねと言われて、よかったと思って嬉しかった

    私がよく、このブログで「人は変わることができる」「受け入れることができる」というのは、そういう自分や私を受け入れてくれたクラスメートがいたからです

    気質は生まれ持ったものだと思います

    でも、性格は手に入れられると思っています

    「こういう自分になりたい」と思えば、そうなれると思っています

    小学4年生、たった10歳の子どもでも頑張れたものが大人にできない訳が無いと思う

    今は派遣という仕事柄、色々な場所で働いている私は色んな人と接しています
    基本的には人見知りなので「明るく・明るく」と思って平気なふりをしていますが、心の中では、かなりドキドキです

    今回の会社でも若旦那にやっと慣れてきて、ほっとしていたら若旦那から別の人に変わって、若旦那の時は私の席にくることがあまりなかったので気にならなかったのですが、新しい担当の人はすごく明るいし、いい人で親切に「これね~~」と席にきて教えてくれました

    ものすごくいい人なのに申し訳ないけれど、実は、それがとってもしんどかった・・・

    人にはパーソナルスペースというものがあると思うのですが、どうやらその距離感が近い人のようでとっても親切なのに、ある日、朝からずっと図面の事を聞いていた時に2時くらいに発作のように肋間神経痛が起きてしまった・・・病気になったあたりから、強いストレスがあると度々なっているのですが、ここしばらくはなかった現象が起きました

    「これは・・・・あかんかも・・・」と思った

    でも、すぐに治まる発作なので、心配かけれないし、明るく普通にしなきゃと思って、痛いし呼吸もそこそこだけど必死に耐えていました。その時に、確かに彼はとってもいい人だし、仕事もやりやすいけど私とはパーソナルスペースが違うんだなって思ったのと、まだその距離感ではなかったのだと思った

    これも人それぞれなんだろうけど、自分からのスペースは近くても平気だったりするけれど相手から来られた時のスペースは変わるように思います

    そして気質の部分を変えることは、性格よりもはるかに難しいんだろうな・・・って思っています

    『ふまれても ふまれても咲く たんぽぽの笑顔かな』

    小学校の卒業式の時に担任の先生が私にと作ってくれました
    きっと先生は私のことをちゃんと見ていてくれたんだろうなって思います  
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  • 2012年03月19日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)その他

    吉祥寺ランチ



    久しぶりに「がん友」さん2人と、吉祥寺ランチに行ってきました

    私は連日の飲み会で、ちょっとヘロヘロ気味でしたが会えるのを楽しみにしていました
    去年の春くらいまでは、月1回くらいはランチをしていましが、私の仕事が決まったり友達も忙しかったりしたので、久しぶりの再会でした

    彼女達とは、「がん患者のためのアロマ教室」で知り合って、かれこれ2年くらいの付き合いになるのかな?年齢も同い年と1つ下だし罹患時期も近いので、私は子宮頸がんで彼女達は乳がんとがん種は違っていても、色々な悩みを抱えているのは同じなので、月1回のランチは心の支えにもなってくれていました

    そして、酒のみの3人はランチでも必ず「じゃあ、ビールね」といって飲んでいます
    女3人で気兼ねなく昼からビールが飲めるっていいな~~なんて思っています

    その時に、不思議な話を聞きました

    以前、1度だけ吉祥寺ランチに参加した人が「すももさんに受け入れてもらえなかったから」という理由で、その友達2人との関係を一方的に切ってきたということらしいです
    正直、一体いつ会ったのかも思い出せないくらいに前の話だな?と思ったし、メールも数回交換したくらいでほとんどかかわりを持ったこともなかった人だったので私が出てくること自体がとってもびっくりしました

    そもそも私が「受け入れてくれる」「受け入れてくれない」って何?と思った
    彼女いわく「すももさんはブログでは、受け入れてくれそうなことを書いているのに、実際に会ったらそんな人ではなかった」そうです

    はあ??と思った

    ここに書いている「すもも」という私の日々を読んで「すももさんが誰でも受け入れてくれる」ような人物像を抱いているとは、私自身が一番の驚きだったし、ちょっと笑ってしまった

    先日書いた「切れるなら切っていいのよ」といい、私は、そんなに誰かを受け入れる人ではないと思っています。そんな「優しい雰囲気」のふりをした憶えもないけれど・・・・

    ただ、がんという病気は「身体の病気である」もあるけれど、精神的に不安定になるところがあります

    人工的に女性ホルモンを押さえて更年期がきたり、卵巣を失くした人は、いきなり更年期が始まってホルモン補充療法しなくてはいけなくなったりします(卵巣欠落症のせい)

    それ以外にも「再発の不安」だったり「死への恐怖」やマイノリティであるという「孤独感」。傷跡が残ってしまったことによる自信喪失や、臓器や胸を失くしてしまったという喪失感など。あげればきりがないくらいにあります

    身体が病気になってしまうのは、仕方がないと思う。でも、なぜかこの病気は自分自身が原因で起こした「心の病気」になってしまう人がとても多い

    そういう私もそんな時があったと思います

    だれもが通る道でもあると思う。

    ただ、その時に病気や治療を「誰かのせい」にするのではなく自分のせいだと思って欲しいし
    受けた治療に関しては、自分を責めるのではなく自分で選択したのだからと受けいれて欲しいと思います

    そして「がん患者だから」という理由で友人になったからといって、無理して関係を続ける必要はないと思います。確かに社会にでると「がん患者」はマイノリティになります。でも「会う・会わない」ということは必ずあるのだから・・・

    彼女には私ではなく、彼女をちゃんと受け入れてあげられるような人が現れてくれることを祈っています  
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  • 2012年03月18日 Posted by すもも at 00:00Comments(2)がんとこころ

    送別会



    金曜日に若旦那とあと1人の人の送別会がありました

    ああ、春だな・・・って思った
    卒業式のあのちょっと切ない気持ちがした

    そして私も3月末までです

    早く次の仕事が見つかるといいな

    そして、いい縁があるますようにface02

      
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  • 2012年03月17日 Posted by すもも at 10:00Comments(0)その他

    天声人語-3.11

     もう1年なのか、まだ1年なのかを問われれば、もう1年が過ぎた、の感が強い。

    震える思いであの日、〈テレビ画面を正視することができなかった〉と本欄を書き出したのは昨日のことのようでもある

    ▼それは、どす黒い海水が仙台平野にのしかかっていく上空映像の衝撃だった。1年をへて、その宮城県名取市を訪ねた。人影のない閖上(ゆりあげ)中学校の時計は2時46分で止まっていた。漁船が3隻、校庭に転がったままだ。生徒14人が亡くなったことを記す碑が新しくできていた▼

    高さ約8メートル、土を盛ったような日和(ひより)山に登ると、消えた街の広さがわかる。卒塔婆(そとば)を拝んでいた中年の女性は「ここで暮らしたなんて、遠い昔のよう」と言った。止まったままの時と、過ぎに過ぎる日々が、被災の地に混在している

    ▼被災地ばかりでなく日本全体にとって、「3・11以前」はもはや戻れぬ対岸になってしまった。振り向けば橋は消えて、隔てる川の流れは深い。だれもが心細い肩を寄せ合いながら、「絆」という焚(た)き火に心の手をかざしてきた1年だったように思う▼

    その「絆」の文字も過剰な使用に摩耗気味だ。井上ひさしさんが健在なら「つるつる言葉」と呼ぶかもしれない。便利に使われすぎて意味も実体もすり減ってしまう言葉を、そう称していた

    ▼スローガンで何が片づくわけでもない。だが私たちの社会がこれほど他者を思ったのも、史上まれなことではなかったか。ともに悲しみ、「絆」の一語に魂を入れ直すこの日としたい。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    3月12日の夕方、避難所の中に「河北新報」が届きました

    1晩中、真っ暗な避難所の中で余震でほとんど眠れなかった
    でも、何1つ自分たちに確かなことなどなかった・・・

    新聞の1面は名取市の閖上(ゆりあげ)地区の津波の写真でした

    どんなに言葉をつくしても、たった1枚の写真にはかなわないと思った瞬間でした
    それは、今まで自分たちが思い描いていたかすかな希望すら打ち砕かれてしまうほどの衝撃でした
    そして、自分たちが生きているということが、本当は奇跡以外の何者でもないのかもしれないと思った瞬間だった

    新聞を見ながら「なんてひどい・・・」と声を詰まらせて泣き出してしまう人。
    津波が来た場所から、避難してきた人もいたし、津波が来た場所に家族や友人がいる人もいました

    何もかもが、あの一瞬で変わってしまったのだと思った

    テレビで『瓦礫の受け入れ反対!』というのを見ると、悲しくなります

    あなたたちにとっての瓦礫は、被災した人には大切な人と過ごした暖かい家だったかもしれない
    色々な人の思い出のつまったものや財産だったのかもしれない

    それをもう1度考えて欲しい

    瓦礫がなくならないと復興もありえない。
    口先だけの慰めの言葉よりも現実を見て欲しい。  
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  • 2012年03月16日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)東日本大震災

    予知夢?



    私は、よく変な夢を見ます

    それは昔からだったし、子どもの頃は夢枕に観音様が立ったりと「勘の強い子」だったと思います

    でも年齢と共に段々とそういうことも無くなってきたのですが、最近、また夢を見ています

    ほとんどが「親しい人に関わる夢」です
    でも、誰なのかわからない時もあるし、起きた時にはっきりわかることもあります

    先日も不思議な夢を見ました
    起きた瞬間の「これはいつもの夢とは違う」と思った

    車椅子の乗っている男性の夢なのですが、とても辛そうでした
    そして、彼は「がん患者」だと言っていました

    車椅子の夢は、あまりいい夢ではないので実家の父親が気になったのですが
    なんとなく「お父さんじゃない気がする」と思った

    そしたら2日後に、友達から「だんなが倒れて緊急入院をした」という電話がきました
    それだったのか・・・と思った。彼女のだんなさんは「がん患者」です
    そして、少し前から何かあまりいい気を感じないなって思っていたので、それを彼女に伝えました

    私は、何かが見えるとかそういうものはないのだけれど、誰かの不調をそのまま受けてしまったりする事があります。まあ、一番のめんどくささは「何かがないとわからない」という事ですが・・・

    今回も本当は少し前から何か不調を「感じていた」のに「悪いかな」と思って教えてあげれませんでした・・・

    それを霊感の強い友達に話したところ「これからは言ってあげてね」と言われた

    もしかしたらということがあった時に、伝えてあげていない事を後悔するかもって

    ただ以前、付き合った男に「子どもの時から担任の先生が誰だかわかってたんよね」と言ったことがあります。朝礼で、前に立っている先生達を見て「この人が私の担任」というのがすぐにわかる子どもで、人が付き合ったり別れたりする事やいろんなことが、当たってたんよね。と言ったことがあります

    その時に「お前、気持ち悪い・・・face07」と言われました

    私には普通の出来事だったので「そうなんか・・・icon_maro03」と、ちょっとショックでした

    しばらくは、何も無かったけれど病気をしてから、また少しだけどそういうことが増えてきました

    いい事があんまりないのが問題だけど、それも仕方がないのかなと思います

    友達に「また夢を見始めたわ」と言ったら「そういえば、前にもそんな時期があったよね」と教えてくれた
    そういえば「しんかい6500」の、おじさんが亡くなった時に夢枕に立った時はいろいろとあったなと思った
    よく「なんでこんなに思っているのに夢にもでてきてくれないの」という人がいますが、私は「思いが強い人にはこない」気がします
    難しいけれど、ほとんどの人が「何か」を伝えに来ます
    その時に、あまりにも思いの強い人には、それが伝わらないのではと思います
    それに気がついてからは、必ず家族の方にそれを伝えるようにしました
    ただ、それにも波があります

    友達いわく「周期があるのかもよ」と、教えてくれた

    彼女はいつも私が忘れているところを補ってくれるので、とっても嬉しい
    しかも、かれこれ30年来の友人なので、超~~~私を知ってます(案外、私よりも知ってたりして・・・face02

    ただ、私の場合は自分以外の人に対してのものなのが困り者ですが。。。

    でも、出来れば「いい男が現れる夢」とかがいいな~~face16
      
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  • 2012年03月15日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)その他

    ポジティブ思考?

    昨日、4月からの仕事で派遣でエントリーをしていたところから『今回は…』という断りの電話がきました

    行きたかった業種だから『あら、残念』と思ったけど『でも、電話してきてくれただけでも、ありがたいわ』と独り言を言ってた。(最近は電話連絡すらないところが多い)

    その時に、なんか自分の『ポジティブさ』に笑っちゃったface02

    前に、やたらと物事を暗い考え方をする人がいて、仕事を断られると『経験がないから』と職安の人にも言われたし、とか色んな理由を並べてたけど、私は大概『他にもあるし』とか『今回は合わなかったのね』くらいしか悩まない。

    仕事も人も縁のものやし、そこはダメでも他の会社もあるやんと思う。

    それも『人それぞれ』なんやろな。と思う

    でも断ったすぐ後に、別の派遣会社から仕事の紹介が来た

    その時に「現在、進行中の案件などはありますか?」と聞かれて
    「あったけど、今、断られたのでいいですよ(笑)」と言っていた
    こうやって聞かれた時に連絡がないと困るので、やっぱり連絡は欲しいよね~と思った

    けれど今回は、勤務地が遠くて断りました
    携帯基地設置のための図面作成という仕事でした
    今、CADで1番多い仕事なのかな?と思います

    もうちょっと待って、いいところがなかったら行ってるかもicon_maro08
      
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  • 2012年03月14日 Posted by すもも at 09:00Comments(2)その他

    命救った防災無線 全音声見つかる



    宮城県南三陸町で、震災発生の際、住民に避難を呼びかけ、多くの命を救った防災無線の音声が完全な形で残っていることが分かりました。
    亡くなった町職員の遠藤未希さんの呼びかけがすべて収録されているほか、呼びかけがどのような判断で行われていたかをうかがわせるものとなっています。

    NHKが入手した音声は、津波で職員や住民、合わせて41人が亡くなった南三陸町の防災対策庁舎から発信された、およそ30分の防災無線の放送をすべて収録したものです。
    地震発生の直後から放送が始まり、サイレンに続いて、危機管理課の職員だった遠藤未希さんが「震度6弱の地震を観測しました。津波が予想されますので、高台へ避難して下さい」と呼びかけていました。
    この時点で大津波警報は出ていませんでしたが、町は独自の判断で津波への警戒を呼びかけていました。
    周囲にいた人の声も収録されていて、大津波警報が出たあと、津波の高さについて「最大6メートルを入れて」と指示され、未希さんは、6メートルという情報と「急いで」とか「直ちに」という言葉を呼びかけに付け加えていました。
    また、周囲の「潮が引いている」という言葉に反応して「ただいま、海面に変化が見られます」と臨機応変に対応していたことも分かります。
    津波を目撃したとみられる職員の緊迫した声のあと、未希さんの呼びかけは「津波が襲来しています」という表現に変わっていましたが、高さについては「最大で6メートル」という表現が続き、最後の4回だけ「10メートル」に変わっていました。
    当時、未希さんたちと一緒に放送を出していた佐藤智係長は「水門の高さが5.5メートルあり、防災対策庁舎の高さも12メートルあったので、6メートルならば庁舎を越えるような津波は来ないと思っていた」と話しています。
    音声は、なおも放送を続けようとする未希さんの声を遮るように「上へあがっぺ、未希ちゃん、あがっぺ」という周囲の制止のことばで終わっていました。
    呼びかけは62回で、このうち18回は課長補佐の三浦毅さんが行っていました。
    男性の声でも呼びかけて、緊張感を持ってもらおうとしたということです。
    三浦さんは今も行方が分かっていません。
    この音声を初めて聞いた未希さんの母親の遠藤美恵子さんは「この放送を聞いて、本当に頑張ったんだと分かりました。親として子どもを守ってあげられなかったけど、私たちが未希に守られて、本当にご苦労さまというしかないです」と話していました。

    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120309/t10013614681000.html

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    震災後1年が来て、テレビ番組でも色々な特集が組まれています

    見るのもつらくなるような映像も沢山ありました

    私は地震後にワンセグで仙台空港が津波にあう映像を最後に、地震後4日目までは、テレビを見ていないので色々な部分がわかりませんでした。断片的ですが、自分が知らなかったものを見れた気がします

    あの時、色々な人が情報を流してくれていたのだという事もわかりました

    遠藤さんの事は、たびたびここでも書いています

    友人の親戚が同じ場所に逃げて亡くなったということもありますが、彼女のように必死に呼びかけていた人がいるんだということを知ってもらいたいと思います。
    残されたテープの中の「上へあがっぺ、未希ちゃん、あがっぺ」と言われるまで、最後の最後まで呼びかけていた彼女や水門を閉めに行ったり歩けない老人を助けに行って、亡くなった人が沢山います

    あの時、自分の命を犠牲にしてまでも人の命を守ろうとした人が沢山いたんだと思います

    ただ、被災後にネットで「餓死してしまいます」や「凍死してしまいそう」「助けて」という呼びかけに
    何も知らない人が「そんなわけないだろう」などと批判するコメントが書かれているのを見ました

    どこで書いたかわからないけれど、あの日、東北の都市の中では比較的暖かく、あまり雪が降らないといわれている仙台市内であっても、午後からは雪が降っていました
    避難所へ向かう少しの間であっても、身体中に雪が積もっていました
    何度も何度も余震がくる中、少しでも避難所の近くに行かなくてはと雪の中を歩きました

    避難所に着いた時には、身体も冷え切っていて、まだ体調がよくなかった私は、寝込んでいました

    仙台の市街地の中でも、1日目の夜は外は、電気も信号も街頭も何もなく、真っ暗な中、震度5くらいの余震が1晩中、何度も何度も起き、その度に避難所の中の色々な場所で携帯電話の地震警報が鳴っていました

    そんな中で仙台駅の文字とその後ろにある大きなビルだけに明かりがありました
    みんな明かりが見たくなるとトイレに行って、その明かりを見ていました
    そして、そこでいろんな人と話をしました

    仙台市内ですら、そんな状態で、津波の被害を受けた地域の避難所の中はどうだったろうと思います

    真っ暗で着替える服も無く、毛布や暖をとる方法も無く、しかももしもストーブがあったとしても余震で使えない現実があったと思います
    避難所すら行けなくて、外や浸水した家の中で過ごした人も沢山いました

    その後、津波で助かった人たちでも、低体温症で亡くなった人が沢山いると知りました

    無責任なコメントを残した人は、今は何を思っているのだろうと思う

    何の想像力も無く、ただ自分の考えだけで正しいか嘘かを決め付けたがる人たち

    もしも、そのコメントを見て「そうか、嘘なんだ」と思った人がいて、差し伸べられる手が差し伸べられなかったらどう責任を取るのだろうと思った

    大きな災害が起きた時には、少しの情報から自分の勝手な解釈で
    正しいか嘘かを判断するのではなく、きちんと情報収集した上で判断して欲しいと思います  
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  • 2012年03月13日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)東日本大震災

    3・11

    真っ暗な避難所の中で、東京の友達と弟の電話が通じました

    弟が『僕の誕生日が、お姉ちゃんの命日にならなくてよかった』と言った時に
    「そっか、今日は弟の誕生日やったんや」と思い出した

    あまりにも色々なことが一度に起きたから、普通のことを忘れていました

    そして弟が「僕は神戸の時に被災して帰宅難民になったけど大丈夫やったから、お姉ちゃんも大丈夫やって」と言ってくれました
    弟は神戸の時には炊き出しのボランティアをしながら、何とか帰ってきました

    私と弟は8歳も離れているし、私が20歳の時には家を出ていたのでほとんどちゃんと話したことも姉妹喧嘩をしたこともなかった

    でも、私の手術の付き添いの時にも不安な私をみて「ここの病院なら大丈夫やから、心配せんでええ」と言ってくれました

    いつも少ない言葉で、励ましてくれた弟です

    3・11というと、これからは毎年、東日本大震災を思い出すだろうと思う

    それと同じように、弟の誕生日も思い出すんだなって思った

    ちょっと複雑な誕生日です  
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  • 2012年03月12日 Posted by すもも at 00:00Comments(0)東日本大震災