たまりば

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血のつながり

実家からお米が送られてきました

うちの母親の実家が農家なので、お米は家から送ってもらっています
「まあ、たまには電話してみるか。。。」と思って電話してみました

母との確執はここでも色々と書いていますが、病気をしてからしばらく経ってから
何となくですが受け入れることが出来てきました

そんな母と、私の会話の中心は「韓国ドラマ」です

母は3年くらい前には「私は絶対に、はまらない!」と断言していたクセに今では、かなりどっぷりでとうとう「5月に友達と韓国旅行に行ってくるね~~」と言っていました

まあ、それも元気なうちやし「ええやん」と言っていた
私にも「パスポート作ったから一緒に旅行に行こう」って言って「一生に1回くらいハワイに行きたい!」なんて言い出すし・・・ただ、リンパ浮腫がつらい私としては「もうちょっと近いところにして」と言っていました。

ただ母が元気なうちに1回くらい旅行に行ってもいいかな。なんて思っています

電話の時に、従姉妹の姉ちゃんの話になった
母が旅行に行く相手を探していて、自分の姉に聞いてみたけれど「今回はパス」と言われて
それなら、姪っこに聞いてみようと言って姉に「連絡先を教えて」と聞いたらしい

その時に叔母に「あの子の事は、かまわんといて」と言われて「すももにきついことを言われたみたいや」と言われたらしい

母に「あんた、何を言うたんや」と聞かれて、そもそも従姉妹の姉ちゃんと話をしたのも、かれこれ2年以上前の話で、しかも姉ちゃんがあまりにもきついことを言うので「私も体調が悪いから、また元気になったらメールします」とメールで送ったのが最後なので、何がどうなってそんな話になったんやろ??と思った

ただ、姉ちゃんの不調は母も前から気がついていたので「まあ、あの子なんか変やったから」といっていたので「あんただけが悪いとは思えへんけどな・・・」と言っていた

姉ちゃんが私に言っていたのは、退院後すぐの私に「あんたには人の生き死には、わからへんのや。でも、私にはわかる」とかよくわからないことばかりでした
がん患者の私に、しかも同室の人が亡くなったりしているのを見ている私に、なんでそんなひどい事が言えるんやろ・・・と悲しくなっていた(姉ちゃんは手術後の私の世話をしてくれるために仙台まで来てくれていたので、私の状態は誰よりも知ってくれているはず)あとは、末期がんの人に貰った仏像をどうすればいいのかという話を何度も何度も聞いてきたりするけれど、こちらの話はまるで聞いていないし、一方的に話し続けるなど違和感のある事が沢山あった

叔母にも「なんかおかしいで」と言ったのですが、その時には「気にしなくてもいいから」と言っていた

でも、それからもう2年以上も経っての「すもものせい」は、ないよな・・・って思った

ただ、その時に思ったのは「きっと、姉ちゃんと最後にちゃんと話をしたのが私だったんだろうな」ということでした。1人暮らしで毎日毎日、家にいて誰とも接することも無くて働くこともなく、買い物に行くのも夜のコンビニだけという違和感のある生活を送っていた姉ちゃんと外の世界を結んでいたのは、その時、退院したばかりの私だけでした
今なら、その危険性もわかるけれど、その時は自分の体調の悪さのほうが大きかったから姉ちゃんのつらさまでは気がついてあげれなかったのだと思った
たった1つ、外とのつながりだった私が電話やメールをしなくなって姉ちゃんと外の世界を繋げるものは無くなってしまったのかもしれないなと思った

母が『友だちなら切ることもできるけど、血のつながりがあるからそれもできひんし、余計にあんたが憎いんとちがうやろか?』と言っていた

姉ちゃんからうちの母に電話がかかってきた時に「ずっとあんたの事を心配してくれるんやけど私の話も聞かへんし、なんやけったいやったんよな」といって「そんなに、あの子が心配なんやったら会いに行ったってくれへんか?」と言ったらしい。でも、その母の問いかけにもまともに答えることもなかったそうです

それからの姉ちゃんがどうなっているのか、よくわからないです

もう1人の従姉妹に聞いても「そっとしといて」しか言わないし・・・
従姉妹は私が言われていた内容も知っていて「あんたの体調がわるなるから、もう連絡せんとき」と言ってくれた人なので「あの子の事は、あんたのせいやないから、気にせんでええよ」と言ってくれました

ただ、そういう人と話した経験がある私としては家族が「本当に危険かも」と思うくらいになるまでって、結構時間が経ってから気がつくという事が多いそうです

家族だからこそ「何とかなる」「大丈夫」という気持ちが強いのだと思います


今回のことで、母が私に言ってくれたのは、昔からいつもいつも母が私に言う言葉があって

『あんたの好きにしたらええ』でした

でも、その言葉には本当は、続きがあって

『あんたの好きにしたらええ。でも、困った時には何とかしちゃるから』でした

初めて言われた言葉でした

いつもいつも突き放すように『あんたの好きにしたらええ』としか言わない母親だったから
「なんて冷たい人やろか」と思っていた

事実、自分のできることは自分でしい。っていう人でもあったから、私も今までほとんど頼ることがなかったし考えたら、それはそれで今の私の強さにもなっているのかなと思った

良くも悪くも『血のつながり』って、やっぱり強いなって思った出来事でした

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    2012年03月21日 Posted byすもも at 00:00 │Comments(0)がんと家族

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