たまりば

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叔母と母のこと

子供の頃、私を生んでから不整脈が出ていた母の体調もあって、歩いてすぐの母の姉の家に預けられていました。ほとんど毎日のように叔母の家にいた私は、母の体調が治ってからもテクテク歩いて遊びに行ってました。叔母の家には5歳上と4歳上の従姉妹が2人いて、楽しかったのだと思います

でも、叔母いわく母はそれがとても嫌だったらしくて、いつも私が寝た後に父親に頼んで迎えに行ってたそうです。そのせいか、最初の私の父の記憶は「おんぶしてくれている背中」です
その時に叔母が「子供は子供同士でいいんじゃないの」と言うと、母は「そんなことしたら家に居つかなくなるやろ」と言っていたそうです

私にとって母は「禁止の人」でした
母が私に何かを言う時には必ずと言っていいくらいに「OOしてはいけない」という言葉でした
それが年を重ねるごとに「あんたの好きにしたらええ」に変化していったけれど、その言葉の裏には必ずといっていいほど「私は、認めない」「私はそんなの嫌」というのを感じていました

私が覚えている母の一番悲しかった記憶は、中学2年生の時に転校が決まった時にお友達のMちゃんが「すももちゃん、明日うちにお泊まりにこない?おかあさんに頼んですももちゃんのお母さんに頼んであげるから」といってくれました。私は「ありがとう」と嬉しくて、家でニコニコしてMちゃんのお母さんから電話がかかってくるのを待っていました。電話がかかってきて「明日は、お泊りにいける」と母の隣でワクワクしていた私の期待を裏切って母は「行かせられません」と断ってしまいました。泣きたいくらいに(布団の中で泣いていた)悲しかった私とは反対に「そんなの当たり前でしょ」とばかりに、何も理由も言わず「ダメだから」とだけ伝えた母を見た時に「なんでお母さんはいつもそうなんやろ・・・」と思った

いつもいつも私が楽しいことをしようとすると、理由もいわずに「ダメ」という母。

反対に叔母は、不思議な人で自分にはとても厳しい人だけれど私や従姉妹に対して「ダメ」ということがほとんどない人でした

ある日の晩御飯の時に、私たちは「背の青い魚」だったのが、姉ちゃんだけが「鯛」でした
鯛といっても、そんなに大きなものではなくて猟師町だったうちの田舎では、そんなに高いわけではなかったけれど姉ちゃんだけが違う魚だから、私が「なんで姉ちゃんだけ鯛やの?」って聞いたら叔母が「この子は背の青い魚は食べれないけど鯛は食べれるからや」と言いました

ええ??そんなん好き嫌いは絶対にあかんと言われていて、どんなに嫌いなものでも食べなくてはいけなかった私の家とは違うなって思った。そして叔母が「好き嫌いはいつか直るものやから、今は食べれるものをちゃんと食べたらええんや」って言いました

そういえば私もピーマンと玉ねぎが泣くほど嫌いだったけど、今は美味しく食べているのだから大人になったら食べれるようになるものもあるんだって思った(でも今でも、にんじんは好きじゃないかな)

でも、うちの母は私が「ピーマンが嫌い」「にんじんが嫌い」「玉ねぎが嫌い」と言うと偏食の多かった私が唯一好きだった「オムレツ」の中に小さく切ったピーマンとにんじんと玉ねぎをいっぱい入れていました
絶対に残してはいけなかったから、食べてはトイレで吐いていました
まるで学校の給食に残された子供のように食卓で1人で食べていました
そのせいか、せっかく好きだったオムレツまで嫌いになって、形が似ているからとオムライスもしばらくは食べれなかった子供でした(オムライスが食べれるようになったのは、20歳を過ぎてからです)

私と母は、本当に合わない親子だったんだろうなって思います

24歳くらいの頃だったかな?会社の同僚の方のお嫁さんが子供を夏休みの間、集団合宿させるというのを聞いてお姑さんである彼女が「なんで子供を自分から離すような事をするのかわからない」と怒っていました。一緒に働いていた女性が「そんなの可哀想。絶対にダメよ」というのを聞いて、私が「別にいいんじゃないの?」と言いました

私は子供の頃に母と一緒にいるよりも叔母と一緒にいたほうがよかったと思っていたから、絶対に子供を手元で育てないといけないという気持ちはなかったのだと思います。そして、私は長い休みはほとんどが叔母の家で過ごしていました

その時に、その人が可哀想といってくれた彼女には「あなたは優しいわね」といって、私には「あなたはそういう人なのよね」と言いました。私は「ああ、私って冷たい人なんだな」って思った

一般的には、子供は親の元で育つのが一番だと思う
でも、私にとっては親と一緒にいるよりも叔母という人がいてくれたほうがよかったと思っています

私の覚えている叔母の一番古い思い出は、八百屋さんでマスカットを買ってもらった事でした
あの緑色のキラキラした葡萄を初めてみて「わあ、なんて綺麗な色」ってドキドキしてた
それを叔母が見て「食べる?」と聞いてくれた
聞いてもらえた事も嬉しくて「うん」と大きく頷いて買ってもらって家まで帰ったら姉ちゃんたちが普通にマスカットを食べてるのを見て「えええ~~こんなの食べたことあるんや」と驚いた
姉ちゃんが「冷凍庫で冷やして、皮を剥いて食べるとまた違って美味しいんよ」っていうから、楽しみにしてお風呂上りに食べました
その美味しかったことって、一生忘れないなって思った

私のカラーヒストリーの中で、明るい緑は幸せな記憶と結びついています
それって、きっとここからなんだろうなって思っています

そして、叔母との想い出は一緒に時代劇を見ていたことかなって思う
叔母は市川雷蔵が大好きでいつも「眠り狂四郎シリーズ」を見ていました
なぜか私は、子供なのに時代劇が大好きで叔母の隣で一緒に「眠り狂四郎」を見ていました
今考えたら、けっこうエッチなシーンの多い映画だったけど、叔母は一度も「ダメ」ということもなく私が「この人、綺麗な人やわ」というと「そうやな、でも、こういう綺麗な人は長生きできひんのよな」と教えてくれました

他にも「遠山の金さん」の中村梅乃助さんに天地茂さんが大好きな子供でした

叔母は「子供だから・・・してはいけない」というのがあまりない人だったのだと思います

そして、私が仙台で入院していた時に従姉妹に付き添いに行くようにしてくれたりと本当に困った時には思いがけない形で助けてくれる人です

母は、私が仙台に行くと決めた時にも「あんたの好きにしたらええ」とは言っていたけれど、やっぱり「地元ならいいのに」や「仙台は遠いからお見舞いにもいけない・・・」などと言っていました

母は、きっと何か言わなくては気がすまない人なんだろうなと思います
でも、それは母なりの愛情表現なのだと思いました

母が仙台まで、お見舞いに来た時にも、あまりにも話が長くて、私が疲れていたら見かねた父が「すももが疲れているから」と言うと「私が言うのが気に入らないの」と怒っていました
母にしてみたら、もっと大変そうだと思っていた私が一見、そうでもなかったのが嬉しかったのだと思うけれど、その少し前に手術をしていた父親にしてみたら私の体調が心配で仕方がなかったのだと思います

母は母なりの愛しかたで私に接してくれていたのだと思います
ただ、子供はわかりやすい人が好きなのだと思います
自分に「~~してはいけない」という人よりは、かならず自分の目線で話してくれたり自分の意見を聞いてくれる人が好きだったのだと思います

それは自分は愛してもらっている。認めてもらっている。受け入れてもらっている。と感じるからなのかな?と思いました。そして、それは母親でなくてもいいし、私のように叔母でもいいと思います
案外、近所のおばさんかも知れないし。
でも、離れていても自分のことをちゃんとわかっていてくれたんだと気がついたら、大人になった時に「ありがとう」と言えるようになると思います

私もやっと母にそう言えるようになりました

私にとっては母も叔母もいなくてはいけない人だったのだと思います
どちらがいなくても、今の私ではないんだろうなって思う大切な人です

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