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医療用語なんだけど。
会社の帰りに同僚と図面の話をしていた私が
「そういえば、プラントでドレーンって配管ででてくるやん。
あれと同じもんを、手術の後にお腹に穴をあけられて、じかにつけられてるんよね。
それもドレーンっていうねんで。
ドレーンって配管だとドレーン配管って溜まった水を流すけど、
手術のあとの腹水たまったのもドレーンっていって出すんよね」と話をしたら
「えええーーー、怖い。大丈夫なの?」と聞かれ「うん。大丈夫大丈夫」って言いながら
ふと、そういや私も最初はいろんな意味で大丈夫かな?とかって思っていたけれど
一回自分が体験して、他の人のをみると、案外冷静だったりするんよね~~って思った
ただ、ドレーン配管と医療用語?で使っているドレーンが同じって面白いなって思った
とはいえ、人の体につけるものと機械につける配管が同じ名称というのは少し不思議。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ドレーン留置(ドレナージ)の目的
ドレナージとは、体内に貯留した消化液、膿、血液や浸出液などを体外に排出することです。排出されたものを通して、創傷部の状態を観察、確認し、治癒を促し、感染を早期に発見する目的で行います。目的や部位により、ドレーンの種類やドレナージの方法は異なります。
1)予防的に行うドレナージ
手術創の縫合部が開いて感染の危険性のある場合や、身体の内部に空洞があり、浸出液の貯留が予想される場合に行います。
2)診断的に行うドレナージ
術後出血、消化液(胆汁(たんじゅう)や膵(すい)液など)の漏れなどを早期発見するためや、貯留物を知るために行います。
3)治療として行うドレナージ
血液、消化液(胆汁や膵液など)、尿、膿、浸出液などを排除するために洗浄したり、薬液を注入するために行います。
「そういえば、プラントでドレーンって配管ででてくるやん。
あれと同じもんを、手術の後にお腹に穴をあけられて、じかにつけられてるんよね。
それもドレーンっていうねんで。
ドレーンって配管だとドレーン配管って溜まった水を流すけど、
手術のあとの腹水たまったのもドレーンっていって出すんよね」と話をしたら
「えええーーー、怖い。大丈夫なの?」と聞かれ「うん。大丈夫大丈夫」って言いながら
ふと、そういや私も最初はいろんな意味で大丈夫かな?とかって思っていたけれど
一回自分が体験して、他の人のをみると、案外冷静だったりするんよね~~って思った
ただ、ドレーン配管と医療用語?で使っているドレーンが同じって面白いなって思った
とはいえ、人の体につけるものと機械につける配管が同じ名称というのは少し不思議。
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ドレーン留置(ドレナージ)の目的
ドレナージとは、体内に貯留した消化液、膿、血液や浸出液などを体外に排出することです。排出されたものを通して、創傷部の状態を観察、確認し、治癒を促し、感染を早期に発見する目的で行います。目的や部位により、ドレーンの種類やドレナージの方法は異なります。
1)予防的に行うドレナージ
手術創の縫合部が開いて感染の危険性のある場合や、身体の内部に空洞があり、浸出液の貯留が予想される場合に行います。
2)診断的に行うドレナージ
術後出血、消化液(胆汁(たんじゅう)や膵(すい)液など)の漏れなどを早期発見するためや、貯留物を知るために行います。
3)治療として行うドレナージ
血液、消化液(胆汁や膵液など)、尿、膿、浸出液などを排除するために洗浄したり、薬液を注入するために行います。
2018年09月15日 Posted by すもも at 21:04 │Comments(0) │がん
10年目
このブログを最後に書いたのはいつだろう?と思ったら、すでにもう2年も経過していた
その時に「もうこれで仙台に行くのは最後かな」と言いながら、結局は、今年2018年が最後になりました
なんだかんだと10年間、仙台に通い続けました
後半の2、3年は婦人科に行くのは、正直な気持ち「自分自身の意地」だったかな?って思います
自分で行くと決めた病院に10年通う。という一念でやってこれた気がします
今は、婦人科には何も未練がないかな
入院中にお医者さんの卵にもなっていない学生さんとの面談があって
その時に感じた「人ではなく病気を見ている」という違和感をこの数年、ずっと診察室で感じていました
だからかな。結局、後半の婦人科の先生には誰にも愛情も持てなかったし
早く診察終われって思いながら、診察室に入っていました
それは、自分自身が病気や病院から遠くなったからだという理由だとは思えないようなものがあります
診察台でも痛いことが多くて、終わった後で何だか切なくなっていました
ほんの少しの優しさや思いやりを感じることが出来なくなって、それが言葉は優しいけれど
患者と向き合っているようには思えないマニュアルどうりの応対が変な空気感や気持ちの寒さを感じました
きっと10年前に話していた人たちが、今の診察室の先生たちなのかなって思いました
人ではなく、病気を見ている
少しだけ、残念です
来週は、仙台です
その時に「もうこれで仙台に行くのは最後かな」と言いながら、結局は、今年2018年が最後になりました
なんだかんだと10年間、仙台に通い続けました
後半の2、3年は婦人科に行くのは、正直な気持ち「自分自身の意地」だったかな?って思います
自分で行くと決めた病院に10年通う。という一念でやってこれた気がします
今は、婦人科には何も未練がないかな
入院中にお医者さんの卵にもなっていない学生さんとの面談があって
その時に感じた「人ではなく病気を見ている」という違和感をこの数年、ずっと診察室で感じていました
だからかな。結局、後半の婦人科の先生には誰にも愛情も持てなかったし
早く診察終われって思いながら、診察室に入っていました
それは、自分自身が病気や病院から遠くなったからだという理由だとは思えないようなものがあります
診察台でも痛いことが多くて、終わった後で何だか切なくなっていました
ほんの少しの優しさや思いやりを感じることが出来なくなって、それが言葉は優しいけれど
患者と向き合っているようには思えないマニュアルどうりの応対が変な空気感や気持ちの寒さを感じました
きっと10年前に話していた人たちが、今の診察室の先生たちなのかなって思いました
人ではなく、病気を見ている
少しだけ、残念です
来週は、仙台です