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紅白歌合戦

もう何年も前から、ちゃんと見たことがなかった年末の紅白歌合戦。
少し気になったので見てみたら、石巻からの生中継でした
東松島の友達からもらったメールです
・・・・・・・・・・山を背にした所に建ってる小学校から放送されたの。
津波で流された住宅や車がゴチャゴチャ重なって、流れて来たガスボンベが沢山爆発して校舎は燃えてしまったの。沢山亡くなった方が見つかった場所でもあるんだけど、そこ一帯が今はさら地なので夜は漆黒の闇。沢山の明かりが灯った場所だったのに今は一軒も住んではいなくて…
改めて悲しくて聞きながら涙が止まらなかった。・・・・・・・・・

中継場所になった門脇小学校の地震後の写真です
避難所にもなる小学校に逃げたのに、まさかそんなところまで津波が来るとは思わなかったと思います
南三陸の防災センターで「津波が来ます。逃げてください」と呼びかけていた遠藤さんという方がいました
その場所で彼女と一緒に友人の身内が亡くなりました
同じように「ここは大丈夫」と逃げ込んだ場所で命を奪われてしまうなんて・・・
あまりにも切なすぎます
2008年の秋に石巻に行きました。塩竃にも東松島にも岩手にも・・・
もうどこが自分が歩いた場所なのかもわからないくらいに変わってしまっている映像を見るたびに
心が痛くなります
避難所にいる時に、東京から遊びに行った帰りに被災した石巻の3姉妹がいました
ツイッターやネットでガンガンUPされている映像と地図を見比べながら、自分たちの家や家族の安否を心配していました
やっとの事で家に帰れたあと、連絡をくれて「私たちの家の前から何も無くなってしまいました・・・」ということでした
それでも、お母さんとお父さんが無事だったこと
家が無事だったことだけでも、ありがたいと教えてくれました
去年、不思議なくらいに色々な場所で神戸で東北で「震災にあった人」と話をしました
東北に行けば東北の人と話はできるけれど、神戸の人と話をすることがとても珍しいと思った
兵庫県姫路市出身の私は、地震にあったからといって生活の何かが変わった訳ではないので、東京に来た時に、神戸で色々なものを無くした人に「何もなかったんだから、いいでしょ」と言われたことがあって、それからはそういう人にあっても何も聞かないし何も言わなくなりました
確かに私は、そうだと思います
でも、神戸の大学に通っていた弟が帰宅難民になって避難所にいたことや、私自身が職をなくしてしまったこと
そして、神戸の学校に通っていた時の私の友達は、命は助かったけどほとんどが被災しました。
電話で連絡が取れた時に、心からよかったと思った
その後、倒産や引越しなど色々な理由でこの何年かの間で何人もの友人と連絡がとれなくなってしまったこと、私も父親も被災地に物資を届けに入ったこと・・・
「何もなかった」訳ではないんだけど・・・・
今回の東北の震災で感じたことは、私自身が仙台で地震を体験したことで色々な事を話せるようになったのも大きな変化だった気がします
神戸から仙台へ・・・
2度の震災の体験は、こういうことだったのかな?と思います
去年、話をした福島や青森・岩手の人に『神戸のこと、仙台のこと。話をしてくださいね』と言われました
阪神淡路大震災の後『明石海峡大橋ができて、それが復興のシンボルみたいな気がしたの』と被災地の友人にメールを送りました
橋は、明るいイメージがある気がしたけれど頂いた返信も「元気をもらえてよかった」という言葉でした
いつか東北にもそういうものが出来るといいなって思います
あんなに綺麗な海があって、優しい心を持った人が沢山いる場所なんだから
きっとそういうものができる気がします
今月もまた検査のために仙台に行きます
寒がりの私には大変だけど、やっぱり東北が好きなのかなって思います
いい人に出会えたし、いい先生たちに出会えました
私にとって、それは生きていく上で大切な財産なのだと思いました
今年も東北を忘れることなく何かできたらなって思います
とりあえず、少しずつでもブログで書いていきたいなとおもっています
石巻の震災被害:東日本大震災直後の石巻市の様子を、写真と文で紹介しています:http://shinyousha.com/shinsai/
2012年01月04日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(0) │東日本大震災
<喪中はがき>「何をどう書けば」戸惑い…陸前高田
<喪中はがき>「何をどう書けば」戸惑い…陸前高田
毎日新聞 12月1日(木)11時52分配信
師走を迎え、年越しの準備が各地で始まる。東日本大震災で人口の1割近くが犠牲になった岩手県陸前高田市でも「喪中はがきの印刷承ります」と書かれた張り紙が目立つようになった。だが、注文の出足は鈍いと業者はいう。「あまりにもたくさんの人が亡くなり、喪中はがきをどう書いたらいいのかも分からない」。遺族はつぶやく。【市川明代】
陸前高田市の印刷会社「高田活版」は10月下旬、プレハブで事業を再開した。例年、11月末までに50件は受けていた喪中はがきの注文だが、今年は10件に満たない。
佐々木松男社長(61)によると、今年は、こんな文面の注文が目立つ。「3月11日の東日本大震災で、多くの友人、知人が亡くなったため 新年のご挨拶(あいさつ)を申し上げるべきところ ご遠慮させていただきます」
津波で妻を失った佐々木さんは、こう話した。「震災直後に世話になった親類に礼状1枚出す気になれずにきた。礼状を兼ねて、住所が分かる範囲で、何か出さなきゃいけないんでしょうけどね」
市内の仮設住宅で1人暮らしの下重ヨシ子さん(78)はこう漏らす。「本当なら、そろそろ喪中はがきを書かなきゃいけない時期なんだべね」。夫秀一さん(当時77歳)は津波にのまれ、見つからないまま。「塩水ばかり飲んで苦しんだんだべな」と思いやり、位牌(いはい)のない仏壇にお水やお茶をたくさん供える。
すぐ近くに住んでいた姉の菅野マサミさん(当時79歳)も亡くなった。これまでなら、正月に備えて姉と2人、大根を漬け始めるころだ。「喪中はがきも何も……。何を書いていいか分からないし、そんな気にもならないもの」。年越し気分にはほど遠い。
市内にある郵便事業会社陸前高田支店によると、年賀はがきの販売枚数は「過去のデータは津波で失ったが、実感としては昨年の半分程度」という。担当者は「亡くなった方が多いこともあるが、被災して、どこに転居したか分からず、年賀状を出したくても出せないという話も聞く」と語った。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111201-00000035-mai-soci
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私のところにも宮城県から喪中はがきが届きました
このハガキを出した友人はどんな気持ちで書いたんだろう・・・
そして、今年はどれだけ沢山の人が喪中ハガキを書いたのだろうと思った
そう思うと、切なくて切なくて・・・
1万6000人という人の命が失われて
その何倍も何十倍もの人が涙を流しているんだと思います
そして、親しい人や友人や同僚を亡くした人も沢山います
来年の年賀ハガキを出す気持ちにはなれないです
1年くらい、出さなくても許してくれるかな・・・
毎日新聞 12月1日(木)11時52分配信
師走を迎え、年越しの準備が各地で始まる。東日本大震災で人口の1割近くが犠牲になった岩手県陸前高田市でも「喪中はがきの印刷承ります」と書かれた張り紙が目立つようになった。だが、注文の出足は鈍いと業者はいう。「あまりにもたくさんの人が亡くなり、喪中はがきをどう書いたらいいのかも分からない」。遺族はつぶやく。【市川明代】
陸前高田市の印刷会社「高田活版」は10月下旬、プレハブで事業を再開した。例年、11月末までに50件は受けていた喪中はがきの注文だが、今年は10件に満たない。
佐々木松男社長(61)によると、今年は、こんな文面の注文が目立つ。「3月11日の東日本大震災で、多くの友人、知人が亡くなったため 新年のご挨拶(あいさつ)を申し上げるべきところ ご遠慮させていただきます」
津波で妻を失った佐々木さんは、こう話した。「震災直後に世話になった親類に礼状1枚出す気になれずにきた。礼状を兼ねて、住所が分かる範囲で、何か出さなきゃいけないんでしょうけどね」
市内の仮設住宅で1人暮らしの下重ヨシ子さん(78)はこう漏らす。「本当なら、そろそろ喪中はがきを書かなきゃいけない時期なんだべね」。夫秀一さん(当時77歳)は津波にのまれ、見つからないまま。「塩水ばかり飲んで苦しんだんだべな」と思いやり、位牌(いはい)のない仏壇にお水やお茶をたくさん供える。
すぐ近くに住んでいた姉の菅野マサミさん(当時79歳)も亡くなった。これまでなら、正月に備えて姉と2人、大根を漬け始めるころだ。「喪中はがきも何も……。何を書いていいか分からないし、そんな気にもならないもの」。年越し気分にはほど遠い。
市内にある郵便事業会社陸前高田支店によると、年賀はがきの販売枚数は「過去のデータは津波で失ったが、実感としては昨年の半分程度」という。担当者は「亡くなった方が多いこともあるが、被災して、どこに転居したか分からず、年賀状を出したくても出せないという話も聞く」と語った。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111201-00000035-mai-soci
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私のところにも宮城県から喪中はがきが届きました
このハガキを出した友人はどんな気持ちで書いたんだろう・・・
そして、今年はどれだけ沢山の人が喪中ハガキを書いたのだろうと思った
そう思うと、切なくて切なくて・・・
1万6000人という人の命が失われて
その何倍も何十倍もの人が涙を流しているんだと思います
そして、親しい人や友人や同僚を亡くした人も沢山います
来年の年賀ハガキを出す気持ちにはなれないです
1年くらい、出さなくても許してくれるかな・・・
2011年12月01日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(0) │東日本大震災
東北のがん患者さんにケア用品を届けよう

One world プロジェクト
~東北のがん患者さんにケア用品を届けよう~
東北のがん患者さんに、医療用のカツラやケア帽子を届けるプロジェクト。乳がんサバイバー、医療者の有志6名で立ち上げ、たくさんのご支援を受けて頂いたケア用品を被災地へ発送しています。
第三次募集のお知らせ
■第三次募集期間:11月7日(月)~11日(金)
※仕分け・発送作業は、有志の発起人と協力者によるボランティアで行っています。日本対がん協会のご厚意で作業場所は提供していただいていますが、物資受け付けを常時行える状況になく、募集期間が短くなっておりますこと、なにとぞご了承ください。
■送付先
〒100-0006 東京都千代田区有楽町2-5-1 有楽町マリオン13F
公益財団法人日本対がん協会内 One Worldプロジェクト宛
電話:03-5218-4771
※お送りいただいた品はすべてこちらで一度開封して確認します。開封しやすい状態で、あまり厳重に梱包せずにお送りください。
■募集内容
医療用カツラ(送付にあたってのお願い事項→下記■を要参照)
付け毛(帽子に付けて使うタイプ)・内帽子(付け毛+ネット)
カツラ用ケア用品:シャンプー・リンス類(新品・未開封に限る)、アンダーネット(洗濯済みのもの)、組み立て式スタンド、ブラシ(新品、もしくは傷み・汚れのないもの)など。
ケア帽子:タオル製、綿ジャージ製、プリント地・バンダナ製など。手作りを含め新品のもの。あるいは洗濯済みのもの。
NEW!秋冬向けグッズ
マフラー/手袋/あったかソックス/腹巻きなど。手作りを含め新品のもの。
※ご遠慮いただきたい品
部分カツラ(頭頂部増毛用)・エクステンション
髪色やスタイルが合う方が限定されて、フィッティングが難しいため。
つばのあるような一般的な帽子
現在すでにかなりの数が集まっているため。ただし付け毛を付けたお出かけ帽子は例外的に募集します。
ヘッド状のスタンド
■医療用カツラの送付にあたってのお願い事項
◆送付前にシャンプーを
おしゃれ着洗いの要領でカツラをシャンプーしてお手入れを済ませてからお送りください。髪が傷んでいる場合は、トリートメントしてよくすすぐと、くし通りが良くなる場合があります。
◆チャック式ビニール袋に入れて
カツラは基本的に箱から出して、チャック式ビニール袋に入れてカサを減らしてお送りください。特にスタンドを兼ねた背の高い箱は、スペースが限られた病院施設では場所を取り、試着の際にも不都合が多いとわかったためです。四角や六角形の小箱は、そのまま送付にご利用いただいても構いません。
◆サイズと髪の長さを書き添えて
試着をスムーズに行えるよう、今後はサイズ(頭囲)と髪の長さを記したタグをカツラに付けて送ります。
可能な方は、↓↓ からタグ(用紙1枚にタグ5枚分あり)をダウンロード・印刷して、該当箇所に印を付けてカツラと一緒にお送りください。印刷できない場合はメモ用紙にサイズと長さを記入してお送りください。
詳しくはこちらで確認してください:http://oneworldpro.jugem.jp/
2011年10月19日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(0) │東日本大震災
ありがとう『東松島元気フェスタ』
東日本大震災の影響で、所属する航空自衛隊松島基地(宮城県東松島市)から“避難”していたアクロバットチーム「ブルーインパルス」が20日、地元の祭り「ありがとう『東松島元気フェスタ』」で、震災以降、同県内では初めてとなるデモ飛行を実施。久しぶりの雄姿に、参加した市民らは歓声をあげた。
この日、ブルーインパルスのT4練習機6機は、三沢基地(青森県)を離陸し、JR仙石線矢本駅周辺の会場上空を隊形を変えながら4回通過。空高く描かれた軌跡を、参加者は感慨を込めて見つめていた。
ブルーインパルスは震災当日、ほとんどの機体が福岡県内に移動しており無事だったが、滑走路の状態が完全ではなく、三沢基地に一時的に駐留。また、松島基地自体も、先月末に災害派遣が終了するまで周辺での活動に専念していたため、本来の機能を回復できていないという。
基地司令の杉山政樹空将補は、「ブルーインパルスを飛ばすことができるのはうれしいこと」としながらも、「これから、松島基地復興へ向けて次の一歩を踏み出すことになるので、身が引き締まる思いです」と決意を新たにした。

『広報松島』さんのブログで、松島基地の被害の様子とその周辺の被災時の写真が公開されています
去年、私は東松島の矢本のお店でお昼ごはんを食べました
その時には今のような事は何ひとつ考えていませんでした
あたり前ですよね。でも、あの時間はもう二度と返ってこないんだって思います
町中が水没して、そしてその家の上に雪が積もっている写真があります
まるで何の音もしないような気がする1枚です
そして、行方不明者を捜索している警察官の横には「行方不明の子供の発見を願う母親の看板」
どんなに町が元に戻っても、戻ってこないものがあるんだと思いました
広報松島:http://minkara.carview.co.jp/userid/311064/blog/
この日、ブルーインパルスのT4練習機6機は、三沢基地(青森県)を離陸し、JR仙石線矢本駅周辺の会場上空を隊形を変えながら4回通過。空高く描かれた軌跡を、参加者は感慨を込めて見つめていた。
ブルーインパルスは震災当日、ほとんどの機体が福岡県内に移動しており無事だったが、滑走路の状態が完全ではなく、三沢基地に一時的に駐留。また、松島基地自体も、先月末に災害派遣が終了するまで周辺での活動に専念していたため、本来の機能を回復できていないという。
基地司令の杉山政樹空将補は、「ブルーインパルスを飛ばすことができるのはうれしいこと」としながらも、「これから、松島基地復興へ向けて次の一歩を踏み出すことになるので、身が引き締まる思いです」と決意を新たにした。

『広報松島』さんのブログで、松島基地の被害の様子とその周辺の被災時の写真が公開されています
去年、私は東松島の矢本のお店でお昼ごはんを食べました
その時には今のような事は何ひとつ考えていませんでした
あたり前ですよね。でも、あの時間はもう二度と返ってこないんだって思います
町中が水没して、そしてその家の上に雪が積もっている写真があります
まるで何の音もしないような気がする1枚です
そして、行方不明者を捜索している警察官の横には「行方不明の子供の発見を願う母親の看板」
どんなに町が元に戻っても、戻ってこないものがあるんだと思いました
広報松島:http://minkara.carview.co.jp/userid/311064/blog/
2011年08月21日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(0) │東日本大震災
OneWorldプロジェクトのその後
以前、私のブログでも紹介したOneWorldプロジェクトの
「ウィッグ&ケア帽子のご提供をお願いできませんか?」という呼びかけの
その後を聞いてきました
私が通院している病院の化学療法室で、受け入れをしていたそうですが
実は、この申し出を受けた時は皆さんの善意を誰がどうやって配布していくか
また、どういう人を対象にするかなど決めていない状態での受け入れだったそうです
病院内でも、頂いても届ける交通手段などがなく、どうすればいいのか?という中での
受け入れ決定だったそうです
その後、帽子やウィッグが届いて『さあ、どうしよう』ってことになってから
婦長さんが、看護師さんに「車で被災地に入って届けなさい」という指示をしたそうです
その時に、現在、治療で髪の毛が抜けている人を優先にして今後の治療で抜けるであろう人は
今回は配布しないなどを決めたそうです
仙台市内からでも、被災地の病院に入るのはとても大変だったらしく
また、病院も被災していることもあって、実際に本当に欲しい人にウィッグが届くかどうかは
行って見ないとわからない。という状態だったそうです
その中で、現地に届けることができて本当によかったし、皆さんの善意を無にすることなく
できたことがよかったと言われていました
そして、今でも被災地で必要なものが刻々と変化していくのに病院でも対応ができないと言われていました
一体、今、一番必要なものは何だろう?というのが、なかなかわからないと言われていました
病院は、外来はほとんど無事でしたが本館の老朽化がひどく
また耐震に問題があるらしくて、使えなくなっていました
神戸の震災の後、ブルーシートをかけた家が沢山ありました
今回、新幹線に乗った時に同じような光景を見かけました
それを地元の友達に話をしたら「そういえば、神戸のブルーシートって無くなるのに1年くらいかかったよね。あれが無くなった時に、やっと震災が終焉したと思ったけれど、実際は10年以上かかったよね・・・」って。。。
そうだったよねって思いました
まだ3ヶ月。これからですね
OneWorldプロジェクトの活動はこちらから: http://oneworldpro.jugem.jp/
「ウィッグ&ケア帽子のご提供をお願いできませんか?」という呼びかけの
その後を聞いてきました
私が通院している病院の化学療法室で、受け入れをしていたそうですが
実は、この申し出を受けた時は皆さんの善意を誰がどうやって配布していくか
また、どういう人を対象にするかなど決めていない状態での受け入れだったそうです
病院内でも、頂いても届ける交通手段などがなく、どうすればいいのか?という中での
受け入れ決定だったそうです
その後、帽子やウィッグが届いて『さあ、どうしよう』ってことになってから
婦長さんが、看護師さんに「車で被災地に入って届けなさい」という指示をしたそうです
その時に、現在、治療で髪の毛が抜けている人を優先にして今後の治療で抜けるであろう人は
今回は配布しないなどを決めたそうです
仙台市内からでも、被災地の病院に入るのはとても大変だったらしく
また、病院も被災していることもあって、実際に本当に欲しい人にウィッグが届くかどうかは
行って見ないとわからない。という状態だったそうです
その中で、現地に届けることができて本当によかったし、皆さんの善意を無にすることなく
できたことがよかったと言われていました
そして、今でも被災地で必要なものが刻々と変化していくのに病院でも対応ができないと言われていました
一体、今、一番必要なものは何だろう?というのが、なかなかわからないと言われていました
病院は、外来はほとんど無事でしたが本館の老朽化がひどく
また耐震に問題があるらしくて、使えなくなっていました
神戸の震災の後、ブルーシートをかけた家が沢山ありました
今回、新幹線に乗った時に同じような光景を見かけました
それを地元の友達に話をしたら「そういえば、神戸のブルーシートって無くなるのに1年くらいかかったよね。あれが無くなった時に、やっと震災が終焉したと思ったけれど、実際は10年以上かかったよね・・・」って。。。
そうだったよねって思いました
まだ3ヶ月。これからですね
OneWorldプロジェクトの活動はこちらから: http://oneworldpro.jugem.jp/
2011年06月23日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(0) │東日本大震災
被災地の子供に絵本を
3月11日以降、しばらくしてからユニセフで『被災地の子供に本を』という呼びかけがありました
その後、被災地の友人に聞いたところ『今はそれどころじゃないから・・・』という事でした
いつか落ち着いたら・・・と思っていたら、先日、全国から寄付された1万冊の絵本が図書館で配布されたそうです
1万冊という数にも驚きましたが、それが無くなったというのを聞いて
そんなに沢山の子供達が絵本を必要としていたんだ・・・って思いました
先日、友達と「子供の時に好きだった絵本」の話をしたら、みんな違う本を言っていました
沢山の人がいるのと同じように、好きな絵本も違うんですよね
でも、何年経っても自分が好きだった絵本は忘れないんだと思いました
今でも図書館に飾られている『おススメの絵本』を見ると、ついつい読んでしまう私です
いい本に出会う事は、いい友人と出会うくらい大切な事だと思います
これからも色々な場所で、絵本が配られていくのかもしれません
みんなの元に絵本が届くといいですね
その後、被災地の友人に聞いたところ『今はそれどころじゃないから・・・』という事でした
いつか落ち着いたら・・・と思っていたら、先日、全国から寄付された1万冊の絵本が図書館で配布されたそうです
1万冊という数にも驚きましたが、それが無くなったというのを聞いて
そんなに沢山の子供達が絵本を必要としていたんだ・・・って思いました
先日、友達と「子供の時に好きだった絵本」の話をしたら、みんな違う本を言っていました
沢山の人がいるのと同じように、好きな絵本も違うんですよね
でも、何年経っても自分が好きだった絵本は忘れないんだと思いました
今でも図書館に飾られている『おススメの絵本』を見ると、ついつい読んでしまう私です
いい本に出会う事は、いい友人と出会うくらい大切な事だと思います
これからも色々な場所で、絵本が配られていくのかもしれません
みんなの元に絵本が届くといいですね
2011年05月10日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(0) │東日本大震災
ウィッグ&ケア帽子のご提供をお願いできませんか?
J-CAN(がん患者団体ネットワーク)で見つけた被災地のがん患者さんへの支援物資のお願いです
【ウィッグ&ケア帽子のご提供をお願いできませんか?】
【仕訳けボランティア募集】
+++++++
3月11日に発生した東日本大震災により、たくさんの皆さんが亡くなられました。被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
被災地では、ウィッグが手元にない状態で避難所で過ごす患者さんや、
避難所に居づらく自宅避難をされている方もいらっしゃいます。
寒さや衛生状態が悪さから、リンパ浮腫が悪化している患者さんもいます。
乳がん患者さん専用の下着も不足しています。
リンパ浮腫用のケア用品と専用下着に関しては、日本対がん協会の「ほほえみ基金」からのご支援を受け、まとまった数を東北へお送りすることができることになりました。
しかしウィッグや帽子を購入する費用は足りません。
ぜひ皆さんからの温かいご支援をお願いしたいと思っております。
皆さまの手元に使わなくなったウィッグやケア帽子がございましたら、
ご提供をお願いできないでしょうか。
何卒ご協力のほどよろしくお願い致します。
<One Worldプロジェクト有志一同>
佐治重衡先生(埼玉医科大学国際医療センター 腫瘍内科)
谷野裕一先生(公立那賀病院 乳腺呼吸器外科医長)
桜井なおみ(NPO法人HOPEプロジェクト代表・乳がんサバイバー)
寺田真由美(KMaCS代表・乳がんサバイバー)
三好綾(NPO法人がんサポートかごしま理事長・乳がんサバイバー)
協賛
公益財団法人日本対がん協会
■ご提供頂いた品の提供先について
頂いた品については、One Worldプロジェクトのメンバーが責任を持って、宮城県の東北大学病院薬剤部宛(北村奈央子さん)に送付させて頂きます。
そちらの医療スタッフの皆さんから東北大学ほか県内の避難所数か所、石巻赤十字病院、東北厚生年金病院、福島県いわき市内の病院等に送らせていただき、必要とされている患者さんへ手渡しして頂きます。
■送付頂く品について
※ウィッグのご提供について
使用済みの場合、お手入れをして頂き、可能な範囲で使える状態にされている品をご提供頂けますと幸いです。
※ケア帽子のご提供について
できましたら新しいものをご提供頂けますと幸いです。使用済みの場合は、クリーニング・洗濯等をしていただき、気持ちよく使える状態にされている品をご提供頂けますと幸いです。
■ご送付について
ご協力いただける方は、以下の住所にご送付頂けますようお願い致します。
大変恐縮ですが送料はご負担頂けますようお願い致します。
※送付時に、品物名と個数を書いた用紙を同封して頂けると助かります。
送付先
〒100-0006 東京都千代田区有楽町2-5-1 有楽町マリオン13F
公益財団法人日本対がん協会内 是澤様・岩沢様宛 One Worldプロジェクト
問合せ先:TEL:03-5218-4771
メール:1WPro2011@gmail.com
■送付締切日
第2次締切日:平成23年4月28日(木)※必着!⇒5月上旬発送予定
第2弾のボランティア募集は、まだ決まっていないそうです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は仙台市内の病院に通院した帰りに被災しました
患者会のかたが午後から手術の予定だった人は延期になったみたいと言われていました
確かにこんな揺れの中では手術もできないし、私の通っている病院は緊急指定病院にかわったので
外来なども緊急の方しか受け入れできなくなりました
今は、手術室の関係もあって婦人科がんの人は1ヶ月以上は待ちます
私も早くしてもらって2ヶ月でした
それだけ待って、また延期というのは不安だと思います
また、いつ手術ができるかわからない状態というのも大変です
被災地から被災地への通院も大変だろうし・・・
そんな中でテレビや新聞で、がん患者さんのための相談室などが設置されたのを知りました
そして、少し遅れましたがこういった活動も。
私は抗がん剤治療は受けていないので、帽子やウィッグは持っていないのですが
避難所などで、知らない人に見られるというのは相当なストレスだと思います
もし、使っていない帽子やウィッグなどがある方はぜひ、お願いします
抜粋なので、詳しい事はこちらのHPから
J-CAN(がん患者団体ネットワーク):http://j-can.blogspot.com/2011/04/blog-post_9136.html
【ウィッグ&ケア帽子のご提供をお願いできませんか?】
【仕訳けボランティア募集】
+++++++
3月11日に発生した東日本大震災により、たくさんの皆さんが亡くなられました。被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。
被災地では、ウィッグが手元にない状態で避難所で過ごす患者さんや、
避難所に居づらく自宅避難をされている方もいらっしゃいます。
寒さや衛生状態が悪さから、リンパ浮腫が悪化している患者さんもいます。
乳がん患者さん専用の下着も不足しています。
リンパ浮腫用のケア用品と専用下着に関しては、日本対がん協会の「ほほえみ基金」からのご支援を受け、まとまった数を東北へお送りすることができることになりました。
しかしウィッグや帽子を購入する費用は足りません。
ぜひ皆さんからの温かいご支援をお願いしたいと思っております。
皆さまの手元に使わなくなったウィッグやケア帽子がございましたら、
ご提供をお願いできないでしょうか。
何卒ご協力のほどよろしくお願い致します。
<One Worldプロジェクト有志一同>
佐治重衡先生(埼玉医科大学国際医療センター 腫瘍内科)
谷野裕一先生(公立那賀病院 乳腺呼吸器外科医長)
桜井なおみ(NPO法人HOPEプロジェクト代表・乳がんサバイバー)
寺田真由美(KMaCS代表・乳がんサバイバー)
三好綾(NPO法人がんサポートかごしま理事長・乳がんサバイバー)
協賛
公益財団法人日本対がん協会
■ご提供頂いた品の提供先について
頂いた品については、One Worldプロジェクトのメンバーが責任を持って、宮城県の東北大学病院薬剤部宛(北村奈央子さん)に送付させて頂きます。
そちらの医療スタッフの皆さんから東北大学ほか県内の避難所数か所、石巻赤十字病院、東北厚生年金病院、福島県いわき市内の病院等に送らせていただき、必要とされている患者さんへ手渡しして頂きます。
■送付頂く品について
※ウィッグのご提供について
使用済みの場合、お手入れをして頂き、可能な範囲で使える状態にされている品をご提供頂けますと幸いです。
※ケア帽子のご提供について
できましたら新しいものをご提供頂けますと幸いです。使用済みの場合は、クリーニング・洗濯等をしていただき、気持ちよく使える状態にされている品をご提供頂けますと幸いです。
■ご送付について
ご協力いただける方は、以下の住所にご送付頂けますようお願い致します。
大変恐縮ですが送料はご負担頂けますようお願い致します。
※送付時に、品物名と個数を書いた用紙を同封して頂けると助かります。
送付先
〒100-0006 東京都千代田区有楽町2-5-1 有楽町マリオン13F
公益財団法人日本対がん協会内 是澤様・岩沢様宛 One Worldプロジェクト
問合せ先:TEL:03-5218-4771
メール:1WPro2011@gmail.com
■送付締切日
第2次締切日:平成23年4月28日(木)※必着!⇒5月上旬発送予定
第2弾のボランティア募集は、まだ決まっていないそうです
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は仙台市内の病院に通院した帰りに被災しました
患者会のかたが午後から手術の予定だった人は延期になったみたいと言われていました
確かにこんな揺れの中では手術もできないし、私の通っている病院は緊急指定病院にかわったので
外来なども緊急の方しか受け入れできなくなりました
今は、手術室の関係もあって婦人科がんの人は1ヶ月以上は待ちます
私も早くしてもらって2ヶ月でした
それだけ待って、また延期というのは不安だと思います
また、いつ手術ができるかわからない状態というのも大変です
被災地から被災地への通院も大変だろうし・・・
そんな中でテレビや新聞で、がん患者さんのための相談室などが設置されたのを知りました
そして、少し遅れましたがこういった活動も。
私は抗がん剤治療は受けていないので、帽子やウィッグは持っていないのですが
避難所などで、知らない人に見られるというのは相当なストレスだと思います
もし、使っていない帽子やウィッグなどがある方はぜひ、お願いします
抜粋なので、詳しい事はこちらのHPから
J-CAN(がん患者団体ネットワーク):http://j-can.blogspot.com/2011/04/blog-post_9136.html
2011年04月18日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(0) │東日本大震災
被災地に荷物が届きました
昨日、東松島市の友達から『荷物が届いたよ。ありがとう』っていうメールが着きました
東松島市は津波の被害の大きい場所でした
彼女が住んでいる場所は、松島基地があるところだったので
ずっと連絡が取れなくて、不安でした
幸い、家は無事でしたが、車も流されてしまったし職場にも津波がきたそうです
でも、家があるから避難所には入れないと言っていました
せっかく電気も水道もきたのに7日の余震でダメになりました
でも、やっぱり電気も水道もガスもなくても、家があるから・・・って
避難所の人は家も家族もなくしてしまった人が沢山いるのに・・・って
私たちは大丈夫よって・・・
彼女はお風呂を貸してあげたり、洗濯機を貸してあげたりしていたそうです
みんな、支え合って生活してるから大丈夫って言っていました
でも、聞けば聞くほど『大丈夫じゃないやん』って思った
食糧は避難所に行けば手に入るかもしれないけど、自力でできるならと行っていないそうです
今は、断水しているので給水車に2時間。それでも手に入らない事もあるのよって
車がないので歩いて行って(自転車も壊れているけど、売っていない)
多分、自転車屋さんもないようです。本屋さんも銀行のATMもなんもないよ~~って。
食料品や日用品を買うお店が開くのに3時間。そして、お店自体も地震で天井が落ちてるから
営業できるのは5時間だけ・・・個数制限もまだあるそうです
そんな中、やっとヤマト便が届くようになりました
今、クロネコヤマトはコンビニでの取り扱いはないのですが、電話すると家まで取りに来てくれます
米とお菓子とティッシュや日用品など少しですが送りました(水が手に入らない)
被災地にいる時に、スーパーのお菓子が無くなってしまいました
生きていくのに必要な米や野菜は入荷するんだけど、お菓子の棚が全くなくて
『生きていくのに必要じゃないかも知れないけど、甘いものが食べたい』って言ってました
それを思い出して、送ったら友達からも『久しぶりのビスケットだ』って喜んでくれました
当たり前のものがない不便さです。
ただ、なぜか関西の友達から『必要なものがあったら送るよ』ってメールが来ます
ありがたいけど、東京にないものなんて、ほとんどないのに何でだろう??って思います
テレビで『水がない』『ヨーグルトがない』『牛乳がない』というのを見ているから??
でも、水はともかく、牛乳はおいてあります
うちがたまたまかもしれないけど、そこまで??って思います
関西の友達は阪神の震災を知っているので『大丈夫、大丈夫?』って言ってくれるけど
本当に大丈夫なんだよ。
あのテレビニュースの後ろの棚は野菜や果物でいっぱいなんよって思ってしまいます
本当に必要な人の映像じゃなく、煽るような映像ばっかりって思う
被災地は綺麗になった場所ばっかりテレビで流れます
そしたら、みんなが平気になったのかもって思うけれど、たった1ヶ月で変わるものじゃないんよって
先日、友人から来たメールは親戚から『今日のご飯は具のないお粥だった』って・・・
さっき友達から来たメールには東松島市の死者900人弱、行方不明776人になりました。
って書いてありました。
郵便局は現在、局留めになっています
被災者がそこまで取りに行かなくてはいけませんが、津波で車が流されていたりして
取りに行くことができない人も多いです
クロネコヤマトは局留めのところもありますが、配達可能地域が増えてきています
知り合いがいる人は、家が無事な場合は、HPで確認してみてください
松島基地の近くの方のブログです:http://minkara.carview.co.jp/userid/311064/blog/22009543/
東松島市は津波の被害の大きい場所でした
彼女が住んでいる場所は、松島基地があるところだったので
ずっと連絡が取れなくて、不安でした
幸い、家は無事でしたが、車も流されてしまったし職場にも津波がきたそうです
でも、家があるから避難所には入れないと言っていました
せっかく電気も水道もきたのに7日の余震でダメになりました
でも、やっぱり電気も水道もガスもなくても、家があるから・・・って
避難所の人は家も家族もなくしてしまった人が沢山いるのに・・・って
私たちは大丈夫よって・・・
彼女はお風呂を貸してあげたり、洗濯機を貸してあげたりしていたそうです
みんな、支え合って生活してるから大丈夫って言っていました
でも、聞けば聞くほど『大丈夫じゃないやん』って思った
食糧は避難所に行けば手に入るかもしれないけど、自力でできるならと行っていないそうです
今は、断水しているので給水車に2時間。それでも手に入らない事もあるのよって
車がないので歩いて行って(自転車も壊れているけど、売っていない)
多分、自転車屋さんもないようです。本屋さんも銀行のATMもなんもないよ~~って。
食料品や日用品を買うお店が開くのに3時間。そして、お店自体も地震で天井が落ちてるから
営業できるのは5時間だけ・・・個数制限もまだあるそうです
そんな中、やっとヤマト便が届くようになりました
今、クロネコヤマトはコンビニでの取り扱いはないのですが、電話すると家まで取りに来てくれます
米とお菓子とティッシュや日用品など少しですが送りました(水が手に入らない)
被災地にいる時に、スーパーのお菓子が無くなってしまいました
生きていくのに必要な米や野菜は入荷するんだけど、お菓子の棚が全くなくて
『生きていくのに必要じゃないかも知れないけど、甘いものが食べたい』って言ってました
それを思い出して、送ったら友達からも『久しぶりのビスケットだ』って喜んでくれました
当たり前のものがない不便さです。
ただ、なぜか関西の友達から『必要なものがあったら送るよ』ってメールが来ます
ありがたいけど、東京にないものなんて、ほとんどないのに何でだろう??って思います
テレビで『水がない』『ヨーグルトがない』『牛乳がない』というのを見ているから??
でも、水はともかく、牛乳はおいてあります
うちがたまたまかもしれないけど、そこまで??って思います
関西の友達は阪神の震災を知っているので『大丈夫、大丈夫?』って言ってくれるけど
本当に大丈夫なんだよ。
あのテレビニュースの後ろの棚は野菜や果物でいっぱいなんよって思ってしまいます
本当に必要な人の映像じゃなく、煽るような映像ばっかりって思う
被災地は綺麗になった場所ばっかりテレビで流れます
そしたら、みんなが平気になったのかもって思うけれど、たった1ヶ月で変わるものじゃないんよって
先日、友人から来たメールは親戚から『今日のご飯は具のないお粥だった』って・・・
さっき友達から来たメールには東松島市の死者900人弱、行方不明776人になりました。
って書いてありました。
郵便局は現在、局留めになっています
被災者がそこまで取りに行かなくてはいけませんが、津波で車が流されていたりして
取りに行くことができない人も多いです
クロネコヤマトは局留めのところもありますが、配達可能地域が増えてきています
知り合いがいる人は、家が無事な場合は、HPで確認してみてください
松島基地の近くの方のブログです:http://minkara.carview.co.jp/userid/311064/blog/22009543/
2011年04月14日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(2) │東日本大震災
阪神・淡路大震災の経験者に聞く 言われて元気が出たことば
ネットで『阪神・淡路大震災の経験者に聞く 言われて元気が出たことば』が
紹介されていました
紹介されている言葉の1つ1つが心に響くものでした
避難所にいた時に、石巻の3姉妹がいて避難所の中でもトランプしたりして
いつも明るく笑っていました
トイレで会った時に「どこ?」「家は?」って聞いたら
「家は、石巻で津波の被害のあったところだから、もうないと思います」
「地震が起きてすぐに、お母さんと電話が繋がって、今から車置いて歩いて家に帰るって言ってから
全然、電話も通じないんです」って言ってた
避難所の中では明るいから、ついついただ家に帰れないだけの子たちだと思っていたし
そういう風に言う人もいました
「元気な子たちよね」って・・・
本当はすごく不安だったんだろうな・・・って思いました
私が避難所を後にする時に、お菓子を「食べ」って渡してあげたら、目に涙をいっぱいためながら
「ありがとうございます」って言ってくれました
私はただの帰宅難民なだけなのに・・・って思った
どうしても、彼女たちが無事に家に帰ったかどうかを知りたくて電話番号を書いた紙を渡しました
そしたら、家について携帯を充電したら電話をくれました
「無事に家につきました」「みんな無事でした」って・・・
泣きながら「よかったね、よかったね」って
そういえば、阪神の時に被災した友達もみんな明るかったなって思い出した
みんな明るくて笑っていた
どんなにつらい現実であっても、人って笑えるんや・・・って思った
みんなそれぞれに「心に残る言葉」や「出会い」があると思います
その言葉を忘れないで・・・
阪神・淡路大震災の経験者に聞く 言われて元気が出たことば
http://news.goo.ne.jp/article/cobs/life/cobsyoko201104post-966.html

http://plixi.com/p/90835752#
こちらは、ネットで見つけたポスターです。あまりに格好いいので。
紹介されていました
紹介されている言葉の1つ1つが心に響くものでした
避難所にいた時に、石巻の3姉妹がいて避難所の中でもトランプしたりして
いつも明るく笑っていました
トイレで会った時に「どこ?」「家は?」って聞いたら
「家は、石巻で津波の被害のあったところだから、もうないと思います」
「地震が起きてすぐに、お母さんと電話が繋がって、今から車置いて歩いて家に帰るって言ってから
全然、電話も通じないんです」って言ってた
避難所の中では明るいから、ついついただ家に帰れないだけの子たちだと思っていたし
そういう風に言う人もいました
「元気な子たちよね」って・・・
本当はすごく不安だったんだろうな・・・って思いました
私が避難所を後にする時に、お菓子を「食べ」って渡してあげたら、目に涙をいっぱいためながら
「ありがとうございます」って言ってくれました
私はただの帰宅難民なだけなのに・・・って思った
どうしても、彼女たちが無事に家に帰ったかどうかを知りたくて電話番号を書いた紙を渡しました
そしたら、家について携帯を充電したら電話をくれました
「無事に家につきました」「みんな無事でした」って・・・
泣きながら「よかったね、よかったね」って
そういえば、阪神の時に被災した友達もみんな明るかったなって思い出した
みんな明るくて笑っていた
どんなにつらい現実であっても、人って笑えるんや・・・って思った
みんなそれぞれに「心に残る言葉」や「出会い」があると思います
その言葉を忘れないで・・・
阪神・淡路大震災の経験者に聞く 言われて元気が出たことば
http://news.goo.ne.jp/article/cobs/life/cobsyoko201104post-966.html

http://plixi.com/p/90835752#
こちらは、ネットで見つけたポスターです。あまりに格好いいので。
2011年04月11日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(2) │東日本大震災
あしなが育英会
仙台から帰ってきてから、テレビを見ていたら『プチッ』って電気が消えました
どうやら、寿命もあったんでしょうがブラウン管が切れた模様です
昨日、やっと買ったテレビがやってきて接続をしてやっと見れたら
グラグラグラ・・・・ってきました
とっさに『この感じ、本震に似ている』って思いました
あわてて、東松島市と石巻市と盛岡市の友達にメールをしたら石巻市の人は
「怖い」ってすぐに返信がきました
東松島市の友達からは「今、避難してます」って返信が・・・
岩手の友達からは返事がなく電話もつうじなくなっていました
テレビで見ると、今回は宮城県の県北と岩手県の被害が大きく、岩手県全域で停電しているようです
本震を知っているからこそ、余震はもっともっと怖く感じました
だからこそ、友達の安否が気になった・・・
岩手の友達は、朝になって携帯が通じたら元気でしたが、やはりかなりの強さだったそうです
東北地方は地震の多い地域だから、思ったよりもみんな地震には慣れているけれど
やはり震度5や6クラスはそうそうないので怖いだろうなって思います

現在、色々なところで募金運動をしています
ただ、以前、ある募金運動をしていたところに寄付をしたら、その寄付金が実は政治家の
活動資金になるらしく、寄付金の4割くらいしか被災地には届かないというのを見ました
悔しくて悔しくて・・・
ということで、今回は赤十字やユニセフと考えていたのですが『あしなが育英会』を思い出しました
阪神の地震の時に、家庭の事情で大学に通えなかった人がいました
せっかく合格していたのに、どんなに悔しかっただろうって思いました
被災して家も仕事も無くした人が自力で通うのはなかなか難しいことだと思います
その上、親も亡くしてしまうと諦めるしかないようなところもあったりします
そんな子供を支援するような方法がないかと思いました
少しだけど、寄付してこようと思います
あしなが育英会:http://www.ashinaga.org/
どうやら、寿命もあったんでしょうがブラウン管が切れた模様です
昨日、やっと買ったテレビがやってきて接続をしてやっと見れたら
グラグラグラ・・・・ってきました
とっさに『この感じ、本震に似ている』って思いました
あわてて、東松島市と石巻市と盛岡市の友達にメールをしたら石巻市の人は
「怖い」ってすぐに返信がきました
東松島市の友達からは「今、避難してます」って返信が・・・
岩手の友達からは返事がなく電話もつうじなくなっていました
テレビで見ると、今回は宮城県の県北と岩手県の被害が大きく、岩手県全域で停電しているようです
本震を知っているからこそ、余震はもっともっと怖く感じました
だからこそ、友達の安否が気になった・・・
岩手の友達は、朝になって携帯が通じたら元気でしたが、やはりかなりの強さだったそうです
東北地方は地震の多い地域だから、思ったよりもみんな地震には慣れているけれど
やはり震度5や6クラスはそうそうないので怖いだろうなって思います

現在、色々なところで募金運動をしています
ただ、以前、ある募金運動をしていたところに寄付をしたら、その寄付金が実は政治家の
活動資金になるらしく、寄付金の4割くらいしか被災地には届かないというのを見ました
悔しくて悔しくて・・・
ということで、今回は赤十字やユニセフと考えていたのですが『あしなが育英会』を思い出しました
阪神の地震の時に、家庭の事情で大学に通えなかった人がいました
せっかく合格していたのに、どんなに悔しかっただろうって思いました
被災して家も仕事も無くした人が自力で通うのはなかなか難しいことだと思います
その上、親も亡くしてしまうと諦めるしかないようなところもあったりします
そんな子供を支援するような方法がないかと思いました
少しだけど、寄付してこようと思います
あしなが育英会:http://www.ashinaga.org/
2011年04月08日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(0) │東日本大震災
忘れないで・・・
「忘れないで」には色んな意味があると思います
今回の地震の時に「阪神・淡路大震災を忘れないで」って言いました
説明不足の私は「忘れないで」って言うと「忘れていないわよ」って言われてしまいます
今回、避難所にいた時にも何度も感じましたが「阪神の事が生かされている」ことでした
その反面、これを知らない人がとても多いという事でした
「神戸は大変だったね」という記憶ではなく、正確な知識として知っていて欲しかったです
東京という地震の多い地区ですら、復旧までの道のりを知らない人が多くて驚きました
地震に遭って一番怖いのは、屋外の場合は上からの落下物は知っていると思います
電柱や電線、信号機やビルの上にある看板などの落下です
でも、それだけではなく建物の横からの壁の倒壊、ガラスの破片だったり
自動販売機が倒れてくることも危険です
今回、仙台駅の前のロータリーに避難している時に、高架橋の下に沢山の人がいました
みんな「雪が降っているし寒いから、できるだけ高架橋の下に」と逃げていました
今回も新幹線の仙台駅の天井の落下のような事があるように、高架橋を信じていなかった私は
「寒くてもそんなところにはいけない」と思っていました
どうしても阪神高速の事を思い出してしまうから信用できなかった
そして避難していく途中でも何度も何度も上を確認して逃げました
仙台市内は地盤が強いのか、地面が割れている箇所は少なかったです
また非常時には市役所や体育館など大きな施設が避難所に開放される事
被災地には一般車両は入れない(緊急車両優先)など
「緊急物資搬送中」というのをつけた自衛隊車両をいくつも見ました
阪神を知っている人間には当たり前の事が、あまりにも知られていない・・・
郵便局でカードがなくても身分証明書があれば支払ってもらえるなどもそうでしたね
(上限10万円まで)
水の流せないトイレには紙を別にしておくことだってそうです
また生理用品やコンタクトレンズ保存液などの不足もそうでした
どんな時にでも、人の体ってそういうものです
阪神の時はあるメーカーが眼鏡を作ってくれました
目が悪い人が被災地を歩くのはとても怖い事です。
メーカーが支援してくれるのは、やはりとても心強い事です
阪神の時は、あまりにも汚い衣料品だったり賞味期限の切れた食品などが入っていたりして
箱をあけた人が悲しくなってしまったというのを聞きました
そういう人ばかりではないですが、色々なものが入ったダンボールを仕分けるのには大変な労力が
必要になります。
ついつい、ボランティアと考えてしまいますが、その人たちを養っていくのも大変です
自分で食糧や寝床を確保し活動できる自衛隊とボランティアは明らかに違います
必要な技術を持っている人が被災地に行くのはいいですが、まだ混乱している時に
ボランティアを入れてしまうのは難しいと思います
また悲しいですが興味半分で被災地に入って写真を撮っていたなどの話も沢山ありました
そして今回も盗難がとても多かったそうです
阪神の時もそうです。避難して帰ってきたら物が無くなっていた・・・
つらい事ですが、そういう人はいます
避難する時に「地震で戸が開かなくなる」と言って戸締りしなかった人がとても多いです
でも、そのせいで盗難にあってしまうという矛盾がありました
電車の復旧についても目視で検査する⇒時間がかかる。でも、それで無理ならバスルートができる
避難所でも私はずっと交通は「3日はかかる」といい続けていました
大きな地震の余震は1週間くらいが危ないけれど、それまでに電車なりバスなりがでるからと言いました
今回もそうでした
みんな阪神の事が教訓になっているんだって思いました
今回、何度も福島の事故でも出てきていますが「ハイパーレスキュー」もそうです
国だって市だって会社だって自衛隊だって、みんな必死でやってくれています
ただ、あまりにも被害が大きすぎます
変なデマに惑わされない
買占め行動はしない
地震を必要以上に恐れないこと。
助かった命を無駄にしないためにも安全な場所や帰宅ルートを確保する
そして、自分の身は自分で守る
私たちがやらなくてはいけないのは、そういう事なんだと思います
先日、神戸のルミナリエができた理由をテレビで言っていました
そうか、知らないんだ・・・って驚きました
観光地神戸を復活させよう!とルミナリエができました
私も地元にいる時は毎年、行っていました
そのルミナリエが予算がなくてできなくなるかもしれないと言った時に宝くじが発売されました
そして、今回「震災宝くじ」がでると言うのを見ました
これも同じですよね
これからも色んなことがあると思います
阪神は、そうやって15年かかって復旧していきました
それを「忘れてほしくない」と思います
先日、同じように阪神の地震の時に大阪にいて、今回、転勤で仙台にいた友達がいて連絡がつきました
「何もわざわざ2回も大きな地震に遭わなくても~~」って2人して言いました
彼は郡山にいて仙台に帰ってきたらしく、その帰りに食糧など必要な物資を買って帰ってきたそうです
「神戸の地震の時も大変やったからな」って言ってました
仙台市内は地震直後に全ての機能が停止してしまったので、お店も散乱していたし
停電で買えませんでしたが私も買っていただろうなって思います
そういう経験は、確実に生きているんですよね。
今回の地震ではプラスもマイナスも色々と出てきました
震災の写真や映像を見て不安になる子供たちが沢山いるそうです
それも、すごくわかります
でも、本当に大変なのはこれからだと思います
だからこそ「忘れないで」って思います
2011年03月31日 Posted by すもも at 00:00 │Comments(2) │東日本大震災
3月11日-仙台駅:14時46分

:3月10日の仙台駅の風景です
3月10日、CTスキャン検査を受けて腫瘍マーカーのための血液検査をして
リンパ浮腫外来に行きました
その時に「9日の地震、すごかったね~」なんて話を顔馴染みの看護師さんとしていました
私はCT検査の日は泊まりになって、次の日に婦人科外来に行きます
3月11日、いつものように放射線科と婦人科の外来に行って先生と話をして、
最後に「美味しい牛たん屋さん、どこです?」って先生に聞いて帰りました
ただ、いつもと違ったのは、2つの外来をかけもちしたせいもあって
かなり混んでたものだから、えらく時間がかかった事でした
そして、いつもと違ってかなり強めの痛み止めをもらったのと
睡眠導入剤をもらいました。これも退院後、初めてでした
今回、色々なこともあって痛み止めと睡眠導入剤を毎日、飲んでいます
仙台駅に2時の予定だったけど、ランチを逆算してみたら
予定の時間よりも遅くなってしまったけれど、牛たんは食べたいし~~って思ってました
まだ12時半、なんとかなるかな??って思い紹介してもらった店に急いで行ってみると
なぜかその日はランチがなくて、5時からの営業になっていました
でも、せっかくの仙台だしって思って他の人に教えてもらった『一仙』でランチを食べました
食べ終わって、バス停の場所を聞いて外に出てみると小雪まじりで寒い!
しかも、なかなかバスがこないし・・・
結局、15分くらい待ってやっとこさ仙台駅行きのバスに乗りました
でも、またここでいつもと違う終点で、結局、いつもよりも歩くはめに・・・
盛岡駅で友達と待ち合わせした時間が4時だし、お腹も痛くなってしまったので
今回は新幹線にしようって思って、パルコの2階から抜けて仙台駅の2階中央入り口に行ったら
「くっくっくっく・・・」っていうのかな?
ものすごく変な横揺れがきた
そしたら、何分もの間(多分3~5分くらいに感じた)強い横揺れがきて、びっくり!
もう、全く自力では立ってられなくて近くにあった大理石の埋め込みに膝をついてしがみついていた
でも、それでも何度も揺さぶられていました
お陰で私の膝小僧には「名誉の負傷」しています・・・
1回目の地震が止まって、2回目の立て揺れからの横揺れが来た時に仙台駅の新幹線ホームのガラスが
「バリバリバリバリバリ」って轟音を立てて揺れ始めたから、
これは絶対に映画みたいにガラスが粉々になって飛んでくる!って思って、
必死で埋め込みから手を離して反対側に逃げた
それまでは「なんとかなる」って思っていたけど、これを見た時は「私、これ飛んできたら死ぬな・・・」
って思ってた
そしたら、まるで、映画の1シーンのように人が仙台駅から出てきた
すごく不思議だったのが、こんなにすごい状態なのに誰も押し合わずに出てくるっていうのがわかった
そして、ドラマや映画なんかよりももっともっとすごく整然としていた
仙台駅の新幹線のホームのところのガラスを見ると、煙がすごくでていて「火事?」って思ったけれど
後で、その時に新幹線のホームの天井が落ちてたんだってわかった
その時、近くにいた男の子が「震度6か7です」って教えてくれて
「助けて」って言って、一緒に高架橋の下へ降りた
下に降りる時も、何度も揺れるし手すりの下も、階段も壊れてる場所があったりして
とりあえず、なんとか必死に降りていった
駅の下のロータリーで、座っている時も何度も何度も立て揺れが来て震える寒さの中で
知らない人たちと一緒にいた
その中で一番、若い子たちのグループが「お腹すいた~~」って言うから「食べる?」って
チョコをあげたら「ありがとうございます」ってニコニコしていた
しばらくして地震が落ち着いたら「じゃあ、私帰るね」って帰っていったけれど、ちゃんと帰れたかな?
雪の中、ずっと傘をさしていてくれた女の子もいた
自分も濡れてしまうのに・・・
地震が来て、揺れてる中を家族を心配していた子たち
電話してもどこにも通じなくて、ワンセグを見て少しでも情報が欲しかった
仙台駅の上を旋回するヘリがいて、テレビに「仙台駅」がでていた
自分たちを写しているヘリが上にいるって、変な感じだなって思った
写っている私たちが一番、自分の状況がわかっていないんだし・・・
ワンセグで「仙台空港が津波で流されていく」のを見た
地震がきている間も、何度も何度も「神戸より大丈夫」って思っていた私が
「この地震、何かが違う」って思った瞬間でした
仙台駅の周辺の道は、ほとんどが隆起したり割れたりしていなかったから
神戸の地震の時の三ノ宮駅周辺や長田よりは、はるかに被害が少ないように思ってた
ただ、異常に強い揺れが何度もくるのと、最初は横揺れだったのが、段々と、立て揺れもきているし
地震の間隔がやたらと短いのが気になってた
とりあえず3日は仙台だろう。って思って覚悟をしていた
その間、何とかしなくてはって思って、自分の病院に行くか市役所が避難所になるだろうから
そのあたりに行こうって思って歩き始めた
その時には、一緒にいた人は1人になっていて2人で逃げました
仙台駅のすぐ近くにあったホテルはやめて、できるだけ市役所のほうへと歩いていたけど
あまりにも雪が降ってきて近くにあったビルの1階に逃げ込みました
でも、すぐに余震がきて少し開いたままで止まっている自動ドアが「バリバリバリバリバリ」って
言い始めて、大慌てで逃げました
ただ、逃げている間にも一緒にいた人が「雪が降っているから建物の下を歩こう」って言うから
「そんなの横からガラスがくるかもしれないんだから、雪で濡れるくらい我慢しなきゃ」って言って
できるだけ建物から離れて逃げた
もう、その時には信号機も街灯も揺れまくっているし、電気はついていないしで交差点を渡りたいのに渡れない!
どうしようもないって思って自分で車道にでて、手をあげて車を止めて歩道を渡っていました
こんな中でも事故もなく、きちんと止まってくれる仙台市民ってすごい!って思った
でも、あまりの寒さと余震で思うようには歩けないから、たまたまあったホテルの前で
「ホテル、泊まれますか?」って聞いたら、「開放していますから、どうぞ」と言われて
そこに入りました。そこがリッチモンドホテルでした
後で地図を見たら、駅からとっても近かったのにホテルまで1時間弱はかかったように思います

「免震構造だから大丈夫ですよ」と言われて安心したのと、宿泊客でもない私たちに
布団や水をくれたりして、本当に暖かい気持ちになりました
ホテルの中は、宿泊客の人もいたし、私たちのように「帰宅難民」になった人も沢山いました
あとは、明日の国立大学の入試を控えた受験生も・・・
夕方、すぐ隣の座った女の人も呼んで一緒に布団に入り温まりました
その日は、自家発電が夜の7時には切れてしまい真っ暗だったけれど(他のビルも真っ暗でした)
ホテルの人に頂いた「ゆで卵」を1つ食べました
懐中電灯で照らしてもらって卵の殻を剥いてました。すごく美味しかった~~
ゆで卵1個がこんなに嬉しくて美味しいなんて考えもしなかった
ホテルの人は、自分たちの家がどうなっているかもわからない状態で私たちの世話をしてくれました
仙台から仙台。といった被災地から被災地への電話は通じないので、メールだけ。
それもほとんどが「送信できませんでした」って返ってくるし、近くに友人がいてもどうしようもなかったです
また、仙台市内は電気もガスも水道もダメだったから、まだホテルのほうが地震の被害にあわないから
大丈夫かもって思いました
夜、友達と弟から電話が来て、弟からは「ぼくの誕生日がお姉ちゃんの命日にならなくてよかった」って
言われました
そういや、今日は弟の誕生日やったわ~~って思い出した
そんな事、この状態の中ですっかり忘れてたわ・・・
そして、心配してくれた患者会の方が真っ暗な中病院からかけつけてくれました
本当に、感謝感謝でした
2日目は、体調が悪かったけれど出かけないと食べ物が手に入らないと思って出かけました
でも、結局は下痢が始まってしまったので、せっかく出かけたのに帰ってしまいました
その時に、一緒にいた2人がコンビニが開くのに1時間、買うのに1時間くらいかかって
買ってきたものを私にわけてくれました
午前中にも受験生の男の子が、お菓子と飲み物を買ってきてくれたし・・・
それまで全く知らなかった人なのに、助けてもらって嬉しかった
でも、私は大丈夫でしたが、あまりよくない事もありました
避難場所のようなところには、色んな人がいます
神戸の時に、被災した友達が怖い目にあいそうになった事を教えてくれました
どんなところであっても、やはり自分の身を守るのは自分自身なんだと思います
3日目避難場所に「震度7の余震がくる」っていうデマが流れて
みんなが帰らなくてはってことになった
震度7の余震って・・・そんな話、神戸でもあったなって思った
でも、これ以上の余震なんて本当にあるんやろか?って思った
確かに「有識者」っていう人がテレビで話していることが正しいかもしれない
でも、必要以上に相手をおびえさせるのってどうなんだろう?って思いました
結局、この事で避難場所にいた人の大半が「仙台から逃げなきゃ」って事になりました
確かに余震はあったけれど、震度7なんてのはこなかったし・・・
朝1番に、仙台から山形に行く高速バスに乗るために第1弾の人達が出て行きました
みんな「3日以内に、震度7がくるから帰ってこい」っていう身内の話で
早く仙台から出ていかなきゃって思ったようでした
その時、仙台から東京に帰るルートは「仙台-山形」で山形空港を利用して伊丹空港経由で羽田行き。
もしくは「仙台-山形」で山形から新潟で新幹線を利用。でした
他にも在来線を使ってというのもあったけれど、どのルートも満席で体調の悪い私には
あまりいい案とはいえなかったので「仙台-山形」に行って一緒に避難した人が岩手に帰るので
そこまで友人に迎えに来てもらいました
山形市内は大丈夫でしたが、仙台も岩手も場所によっては電気がついていなくて真っ暗中、
友達が1時間以上かけて迎えにきてくれました
本当にありがたかったです
結局、私の避難所生活は3日でした
でも、その中でも色んな事がありました
色んな人がいたし・・・
ただ思ったのは、地震や津波があったからといって被災地である仙台を嫌いになって欲しくはないなって
思います
嫌いになるなら、地震や津波をきらいになればいい
そして、地震が来た時に「どうやって帰るか」だけではなく、例えば水が流れないトイレには
紙は流さない。など基本的な事くらいは知っておいて欲しいと思いました
ホテルの掃除の人が、トイレの便器に手を入れて紙を出してくれていました
そんな知識すらないんか・・・って思いました
今も色々なデマがあります。
そういったものにも惑わされないようにしてください。
地震は日本にいる限り、どこであっても起きる事です
どんなときでも冷静に。
3月28日(月)。
無事に岩手から東京に帰ってきました。