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紅白歌合戦

もう何年も前から、ちゃんと見たことがなかった年末の紅白歌合戦。
少し気になったので見てみたら、石巻からの生中継でした
東松島の友達からもらったメールです
・・・・・・・・・・山を背にした所に建ってる小学校から放送されたの。
津波で流された住宅や車がゴチャゴチャ重なって、流れて来たガスボンベが沢山爆発して校舎は燃えてしまったの。沢山亡くなった方が見つかった場所でもあるんだけど、そこ一帯が今はさら地なので夜は漆黒の闇。沢山の明かりが灯った場所だったのに今は一軒も住んではいなくて…
改めて悲しくて聞きながら涙が止まらなかった。・・・・・・・・・

中継場所になった門脇小学校の地震後の写真です
避難所にもなる小学校に逃げたのに、まさかそんなところまで津波が来るとは思わなかったと思います
南三陸の防災センターで「津波が来ます。逃げてください」と呼びかけていた遠藤さんという方がいました
その場所で彼女と一緒に友人の身内が亡くなりました
同じように「ここは大丈夫」と逃げ込んだ場所で命を奪われてしまうなんて・・・
あまりにも切なすぎます
2008年の秋に石巻に行きました。塩竃にも東松島にも岩手にも・・・
もうどこが自分が歩いた場所なのかもわからないくらいに変わってしまっている映像を見るたびに
心が痛くなります
避難所にいる時に、東京から遊びに行った帰りに被災した石巻の3姉妹がいました
ツイッターやネットでガンガンUPされている映像と地図を見比べながら、自分たちの家や家族の安否を心配していました
やっとの事で家に帰れたあと、連絡をくれて「私たちの家の前から何も無くなってしまいました・・・」ということでした
それでも、お母さんとお父さんが無事だったこと
家が無事だったことだけでも、ありがたいと教えてくれました
去年、不思議なくらいに色々な場所で神戸で東北で「震災にあった人」と話をしました
東北に行けば東北の人と話はできるけれど、神戸の人と話をすることがとても珍しいと思った
兵庫県姫路市出身の私は、地震にあったからといって生活の何かが変わった訳ではないので、東京に来た時に、神戸で色々なものを無くした人に「何もなかったんだから、いいでしょ」と言われたことがあって、それからはそういう人にあっても何も聞かないし何も言わなくなりました
確かに私は、そうだと思います
でも、神戸の大学に通っていた弟が帰宅難民になって避難所にいたことや、私自身が職をなくしてしまったこと
そして、神戸の学校に通っていた時の私の友達は、命は助かったけどほとんどが被災しました。
電話で連絡が取れた時に、心からよかったと思った
その後、倒産や引越しなど色々な理由でこの何年かの間で何人もの友人と連絡がとれなくなってしまったこと、私も父親も被災地に物資を届けに入ったこと・・・
「何もなかった」訳ではないんだけど・・・・
今回の東北の震災で感じたことは、私自身が仙台で地震を体験したことで色々な事を話せるようになったのも大きな変化だった気がします
神戸から仙台へ・・・
2度の震災の体験は、こういうことだったのかな?と思います
去年、話をした福島や青森・岩手の人に『神戸のこと、仙台のこと。話をしてくださいね』と言われました
阪神淡路大震災の後『明石海峡大橋ができて、それが復興のシンボルみたいな気がしたの』と被災地の友人にメールを送りました
橋は、明るいイメージがある気がしたけれど頂いた返信も「元気をもらえてよかった」という言葉でした
いつか東北にもそういうものが出来るといいなって思います
あんなに綺麗な海があって、優しい心を持った人が沢山いる場所なんだから
きっとそういうものができる気がします
今月もまた検査のために仙台に行きます
寒がりの私には大変だけど、やっぱり東北が好きなのかなって思います
いい人に出会えたし、いい先生たちに出会えました
私にとって、それは生きていく上で大切な財産なのだと思いました
今年も東北を忘れることなく何かできたらなって思います
とりあえず、少しずつでもブログで書いていきたいなとおもっています
石巻の震災被害:東日本大震災直後の石巻市の様子を、写真と文で紹介しています:http://shinyousha.com/shinsai/